2019年1月6日日曜日

信仰生活の基本(1)「礼拝」イザヤ6:1~13


新年明けましておめでとうございます。2019年の歩みが始まりましたが、皆様はどの様な思いで新しい年をスタートしたでしょうか。これをしてみたいと言う目標、計画はあるでしょうか。ここ数年、新年最初の1月、2月の礼拝では、信仰生活の基本と題して、礼拝、伝道、交わり、聖書、そして奉仕や献金、賜物の管理等、様々なテーマについて学んできました。

 キリスト教信仰をもって数十年と言う様なベテランのクリスチャンにとっては、もはや当たり前と思われる事柄ばかりかもしれません。しかし、当たり前と思われる事柄だからこそ、何度でもその意味と恵みを確認し、新たな思いで取り組んでゆくことが大切ではないかと思うのです。

 今朝、2019年最初の主の日に取り上げるテーマは礼拝です。普段、私たちは毎週の礼拝において、何を心に留めているでしょうか。そもそも礼拝において何を心に留めるべきかを考えたこと、意識したことはあるでしょうか。一年で50数回行われる礼拝。各々の礼拝において何を心に留めるべきか、よく意識して臨むのと、ただ漫然、漠然と臨むのとでは、大きな違いが生まれてくるのではないかと思います。

礼拝に臨む際、心に留めるべきこと、心に留めた方が良いと思われることは幾つもありますが、今朝私たちは、旧約のイザヤ書を通し、礼拝において心に留めるべきことを三つ確認したいのです。

先ず一つ目は、私たちが礼拝すべき神様とはどういうお方かを、心に留めることです。よく聖書の神は人格的な神様だと言われます。それは、聖さ、親切、柔和、誠実など、神様に様々な性質があることを意味しています。創造、導き、救い、さばきなど、神様が生きて働かれるお方であることをも示しています。

それでは、今日の箇所、神様はイザヤに対して、ご自身をどの様なお方として示されたのでしょうか。


6:1~4「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。」


1節に「ウジヤ王が死んだ年」とあります。ウジヤは歴代の王の中で善王として数えられています。事実ウジヤの時代、南ユダの国は繁栄と安定を保っていました。しかし、晩年には祭司しか行うことのできない務めを自ら行ったことで、神のさばきを受け、生涯に汚点を残します。

紀元前740年に起こったウジヤ王の死以降、南ユダは近隣の国からの圧力にさらされ、政治的に不安な状況に陥りました。また、1章から5章には、民の間に偶像崇拝と不正が蔓延り、人々のささげる礼拝は形式的なものに堕し、神様が心を痛めていたことも記されています。

その様な時、都の神殿で、イザヤは今朝の私たちと同じく、神様を礼拝していたのでしょう。その礼拝において、イザヤの目の前に突如、高くあげられた神の御座が現れ、その上では、セラフィム達が、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」と高らかに神を賛美していたのです。

セラフィムはみ使いの一種で、聖書ではここにだけ登場します。「聖なる」と言うことばを三度繰り返していること、また、顔と足とを翼で覆いつつ飛んでいる姿から、み使いは聖なる神を意識して礼拝しています。さらに「万軍の主」と言うことばが示すように、この世界のすべてのものを創造し、支配する王として、神様を賛美しているのです。しかも、神殿の土台が揺らぎ、内部が煙で満たされる程はっきりと、神様はご自身を示されたとあります。

このことを通して、イザヤは自分が礼拝すべき神様が聖なる主であることを、心に留めることができたのです。

二つ目は、神様が示す罪に心を留めることです。この時イザヤは、セラフィムとともに、神様を賛美することができたのでしょうか。そうではありませんでした。イザヤは「ああ、私は滅んでしまう」と告白せざるを得ませんでした。自分が神様を賛美する資格のない者であることを、心の底から感じていたのです。


6:5「私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」


イザヤは、この時既に預言者としての活動を始めていました。まだ若く20歳代前半の若者であり、身分の高い家の出身であったとも言われます。イザヤは預言者として、同胞に対して嘆き、怒り、失望し、さばきのメッセージを語ってきました。そして、この時の礼拝で、神様はその様なイザヤに現れ、彼に欠けている点があることを示されたのです。

時に、私たちは神の救いにあずかり、熱心に信仰を燃やす時、同時に人をさばくようになることがあります。周りにいる信仰者の罪を犯す姿に怒り、神を信じようとしない人の態度に憤り、さばきのことばを口にしてしまうことがあります。その背景には、「自分はあの人とは違う。あんな罪人ではない」と言う自分を義とする思いがあります。知らず知らずのうちに、「その様な人と自分とは違う所にいるのだ」と言う思いで、人を責めているのです。

イザヤには、周りの人をさばくと言う罪の自覚が欠けていました。神への奉仕には熱心であっても、自分もまた罪人の一人であり、日々罪を犯していると言う自覚に欠けていたのです。

神様は、ご自身の聖さをはっきりと示すことで、イザヤがその罪に気が付くよう導かれました。「ああ、自分は滅んでしまう。」私たちが、聖なる神の前に立たされた時、自分が誇っていたものは、何一つ誇れなくなります。

イザヤは、「私は唇の汚れた者」と言うことばで、それを示していました。「自分は彼らとは違う」と言う高慢な思いから、どれ程同胞を責め、さばいてきたことか。預言者として、自らを周りの人より一段上に置いて物を言ってきたことか。聖なる神の前に立つ時、そんな自分の存在全てが罪であり、滅びにふさわしいことに、イザヤは気がついたのです。

私たちクリスチャンは、自分が罪人であることを徹底的に知らなければなりません。そうでなければ、神様の前で自分が罪人以外の何者かになってしまいます。私が神学生として、教会奉仕に励んでいた時のことです。色々と教会の問題が見えてきて、権先生と言う宣教師に「あの人のここが問題だ」等と言う様になりました。すると、権先生は「山崎さん。あなたはまだ罪人と言う事が分かっていない。自分の罪が分からないから、人の罪を見て、責めてばかりいるのではないですか。もっと神様の前に出て、もっと罪人になりなさい。」そう言われたことが忘れられません。

さらに、イザヤは言いました。「私は唇の汚れた民の間に住んでいる。」イザヤは、これまで責め続けてきた同胞、神様の前に口先だけの礼拝をささげていた民の一人である自分を発見したのです。「私も同じ罪人、いや彼ら以上の罪人ではないか。」神様は、ご自身の聖さを示すことで、イザヤをこの告白に導いたのです。この瞬間、神様の側から救いの御手が伸ばされました。み使いセラフィムが祭壇に燃え盛っていた炭火を手に、イザヤのところに近づいて来たのです。


6:6、7「すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」


神殿の祭壇の上で何千頭もの罪のためのいけにえがささげられ、血が流されたことによってできた贖いの炭火。それをみ使いは、イザヤの唇にあてたと言うのです。それと同時に、「あなたの罪は赦された。」と言う赦しの宣言が届きました。

イザヤは、これをどのような思いで聞いたでしょうか。罪人である自分、神様の前で滅びるしかないと感じた者が、同じ神様によって罪贖われた者、罪のない者とされたのです。霊的に死んでいたイザヤが生き返ったのです。ぺちゃんこにされたイザヤが、ただ神様の恵みによって立ち上がったのです。

すると、ここに驚くべき神様の声が聞こえてきました。それは、イザヤの過去を責める声ではありまさせんでした。南ユダの民に対する怒りの声でもありませんでした。聞こえてきたのは、神様が、なお愛してやまないご自身の民のところに、イザヤを遣わしたいと願っておられる声だったのです。

礼拝において心に留めるべきこと、三つめは私たちに対する神様の信頼、期待に心を留めることです。


6:8「私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」


私たちは一度失敗した人に、大切な仕事を任せようとは思わない。そんな世界に生きています。「赦したよ」と口にしても、「それじゃあ、この仕事をお願いしようか」と、さほど重要ではない仕事を頼んだりします。私たちは、一度失った信頼を取り戻すことは非常に難しい世界に生きているのです。

しかし、神様はそうではありません。神様はイザヤの罪を赦しただけではなく、神様にとって最も大切な仕事をイザヤに任せたのです。そして、今も神様は礼拝における恵みによって、私たちを赦し、立ち上がらせることができるのです。今も私たちに期待して、大切な仕事を任せてくださり、私たちをこの世界に遣わすお方なのです。

「ここに私がおります。私を遣わしてください。」このイザヤのことばは、決して自分に自信があってのものではないと思います。むしろ、滅びこそふさわしい者を愛し、新しくしてくださった神様の恵みに、「私の様な者でも良ければ、どうぞお使いください」と応える、感謝の応答だったことでしょう。

すると、イザヤの耳に聞こえてきたのは、イザヤを落胆させかねないメッセージでした。


6:9~11a「すると主は言われた。「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」

私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は言われた。…」


 このことばを素直に読むと、神様は、まるで人々が神様に立ち帰って癒され、救われることがないために、イザヤに「行け」と命じておられるように見えます。しかし、これは聖書独特の表現で、イザヤが民のところに出て行き、神様のことばを語る時、必ず人々はこれを聞かず、悟らず、神様に立ち返ろうとしないだろうと言う意味なのです。将来起こること、この場合で言えば、イザヤの活動の結果、人々が益々不信仰になることが確実であることを示す、表現方法でした。

 そうだとすれば、イザヤに託されたのは、労多くして喜びの少ない仕事、「一体何のための仕事ですか」と神様に問いたくなるような、理不尽な仕事ではないかと思います。私だったら、「何故そんなそんな仕事を私にさせるのですか」と聞いてしまいそうです。

 しかし、イザヤは「何故」とは問わず、「主よ、いつまでですか」と問いました。イザヤは、「私のような罪人が救われたのだ。同じ罪人である民を神様が救われないはずはない。」そう確信していたのでしょう。だから、「何故」ではなく、「主よ、いつまでですか。いつまでこの仕事を続ければ、あなたは私の罪を贖ってくださったように、あなたの民の罪を贖い、救ってくださるのですか。私はあなたの恵みに信頼します。」そんな思いを込めて、神様に問いかけたのではないかと考えられます。自分だけが救われればよいのではない。今も罪の中に生きる人々の救いのために、イザヤは神様に体当たりしたのです。その問いに答える神様のことばが、続きます。


 6:1113「私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は言われた。「町々が荒れ果てて住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる。【主】が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増えるまで。そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔。」


 町々は荒れ果て、国は見捨てられる。十分の一の人が残されるが、やがてそれも焼き尽くされる。余りにも酷い状況が、イザヤを待っていました。けれども、全てが焼き払われた後に切り株が残る。その切り株とは聖なるすえ。これは、来るべき救い主についての預言、キリスト預言です。

 この後,預言通り、神様から離れてゆく人が増え、国は悲惨な状態になります。周りの状況がどんどん悪くなってゆく中、イザヤは来るべきキリストの到来を信じ、神様から任された預言者の仕事を続けてゆくことになります。

 最後に、礼拝において心に留めるべきことを確認したいと思います。第一は、礼拝のみことばにおいて示された神様の性質や働きを良く心に留め、神様を礼拝することです。聖なる神なのか、恵みと赦しの神なのか。救いの神なのか、さばきの神なのか。礼拝すべき神様がどのようなお方であるかを心に留めながら、それにふさわしい態度とことば、賛美で礼拝したいと思うのです。

 第二は、神様が示された自分の罪についてよく考えること、そして罪の贖い恵みを受け取ることです。自分の罪について考えなければ、どう修正すればよいのかわかりません。罪の贖いの恵みを受け取らないと、正しい道を進む力が与えられないからです。第三は、神様に愛され、罪赦された者は、イザヤの様に礼拝の場から、人々に仕える尊い働きのためこの世に遣わされると言うことです。

 礼拝において、自分は神様をどのようなお方として礼拝するのか。神様が示してくれた自分の罪、修正点とは何か。礼拝において、神様から託されこの世で行う自分の仕事とは何か。これから一年間の礼拝を、この様な点を心に留めながら、私たちささげてゆきたいと思うのです。


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