明けましておめでとうございます。新たな年を、皆様とともに礼拝で迎えることが出来ますこと、心から嬉しく思います。これから始まる私たち一人一人の歩み、毎週の礼拝の歩み、四日市キリスト教会の歩み、日本長老教会の歩みが祝福されますよう皆で祈りたいと思います。
新たな一年の歩みを始めるにあたり、イエス様の言葉から励ましを受けたいと思い、皆で一つの箇所を読みたいと思います。からし種とパン種の話。
「小さなからし種を畑に蒔きました。やがて芽が出て、成長し、木になり、空の鳥が来て、巣を作りました。めでたし、めでたし。」子どもの絵本のような話。一体何だろうと思いますが、これが神の一人子が語られた話。もう一つも至極簡単。「一つまみのパン種を、小麦粉に混ぜたら、全体が膨らみました。めでたし、めでたし。」これも、童話のような話ですが、イエス様が語られたたとえ話。
「種を蒔いたら、大きな木になった」。「小麦粉にパン種で、膨らんだ」。当たり前のこと、当然のこと。しかし、そこに不思議を見るイエス様の目。小さな小さな種が、巨大な木となることの不思議。僅かなパン種が、小麦粉全体に影響を与える不思議。言われてみれば、確かに凄い。当たり前、当然のことと考える前に、神様が造られた世界の面白さ、不思議さを確認したいところ。種を蒔けば芽を出す、混ぜれば膨らみだす。素朴、日常的、しかしそこにある正直な不思議さ。
イエス様も田舎町ナザレで、父ヨセフの仕事を手伝い、母マリアの台所の手伝いをされたでしょう。畑で種を蒔くイエス、台所でパンを捏ねるイエス。世界を造られた方、神である方が人となることの不思議さを、このようなたとえ話の中にも感じられますが、人間味あふれるイエス様というのも魅力的です。
また当時の一般的な感覚からすれば、一方が畑に種を蒔くという男の仕事に対して、一方が台所でパンを捏ねるという女性の仕事を題材とする。どこにでもある話、無造作な話のようでいて、実は行き届いた配慮ある話と見ることも出来ます。
「種を蒔いたら、大きな木になった」。「小麦粉にパン種で、膨らんだ」。日常的、どこにでもあること。当たり前と言えば当たり前、不思議と言えば不思議。小さな絵本のようなこの話は、しかし、その物語ることが「天の御国」の秘密であり、何とも世界大のスケールとなっているのです。
マタイ13章31節~33節
「イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。『天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。』イエスはまた、別のたとえを彼らに話された。『天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます。』」
マタイ13章と言えば、「天の御国」を様々なものでたとえるイエス様の説教が記録される章。種まきのたとえ、毒麦のたとえ、畑に隠された宝のたとえ、良い真珠を探している商人のたとえ、海に投げ入れられる網のたとえ。これらのたとえとともに語られるのが、からし種のたとえ、パン種のたとえとなり、今日はこの二つのたとえに焦点を当てます。
この章で繰り返し語られる「天の御国」とは何か。極々簡単にまとめると、「神様の御心に沿った状態」、「聖書に示されたあるべき状態」のこと。アダムとエバが罪をおかして以来、堕落した世界。罪にまみれた人間。人間が作り出した社会も罪にまみれたもの。人も、この世界が、「神様の御心に沿った状態」となるというのが、聖書が教える福音でした。
人も世界も良い状態となる。天の御国の力強さは、何にたとえられるのか。それは、一粒のからし種、一つまみのパン種のよう。小さく僅かに見えても、みるみるうちに伸び、グングンと膨れ上がり、ついには人々を覆い、世界を満たすという、何とも豪快なたとえ、豪快な預言となっているのです。小さくて大きなたとえ話。
それでは、二つのうち一つ目のたとえから見ていきます。
マタイ13章31節~32節
「イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。『天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。』」
皆さまはからし種を見たことがあるでしょうか。「種」にも、色々な大きさがありますが、からし種はともかく小さい。からし種を知らない人に、一粒のからし種を見せて、これを何だと思うかと聞いても、種とは思えない程小さい。当時のユダヤの文化で、小さいものの代名詞がからし種でした。風が吹けば飛び、消えてしまう。あるかないかの存在。その小さなものの代表であるからし種が、巨木となる。この、小から大ということがこのたとえの中心です。
小から大がたとえの中心。しかし、木が成長し巨木となり、枝に鳥が来るというのは、旧約聖書に記された一つの場面を思い起こさせるものでもあります。バビロン捕囚の際、当時圧倒的な力でその地方を席巻したネブカドネツァル王が見た夢が、木が成長し鳥が来るというものでした。
ダニエル書4章10節~12節
「私の寝床で幻が頭に浮かんだ。私が眺めていると、見よ、地の中央に木があった。それは非常に高かった。その木は生長して強くなり、その高さは天に届いて、地の果てのどこからもそれが見えた。葉は美しく、実も豊かで、その木にはすべてのものの食べ物があった。その木陰では野の獣が憩い、その枝には空の鳥が住み、すべての肉なるものはそれによって養われた。」
この夢がどのような意味があるのか。(夢は、その木を切り倒すというものですが)解き明かすように言われたのが、ダニエル、別名ベルテシャツァルで、その木とはネブカドネツァル王であると言います。
巨大な木、枝には鳥が来る。それが、巨大な権力をもってその地方を治めた王自身を指す。この旧約聖書のエピソードを下敷きにして、今日のたとえを聞きますと、小から大というだけでなく、世界を席巻する。世界大の統治という意味合いも見出すことになります。
イエス様がこのたとえを語られたのは、地中海世界、ローマ世界の片隅でのこと。キリストの弟子と言えば、無学で名もない者たち。田舎漁師やら取税人やらの集まり。この小さな小さな集まりが、やがて世界を席巻する教会となるなど、思いもつかない。想像するのも難しい。しかし事実、今や極東の国、日本の私たちのところまで、天の御国は広がってきた。約二千年前、イエス様の言葉を聞いた者たちの中で、今の世界を想像出来たものが一人でもいたかと思います。
畑や台所を題材とした、小さな絵本のような話題の中に、世界大の預言が込められていて、それが実際に実現に向かっているということに圧倒されます。この童話風のたとえ話の中に、確実に成就する天の御国の姿を見据えたイエス様の眼光の鋭さ。
この一つ目のたとえが、小から大。全世界への広がりとすれば、二つ目のたとえは変化、変質に重点があります。
マタイ13章33節
「イエスはまた、別のたとえを彼らに話された。『天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます。』」
パン種は、聖書の中で、繰り返したとえに用いられているもの。ユダヤはパンを主食とする文化のため、馴染み深い題材でした。
ところで、当時パン種はどのように保存されたでしょうか。パンを焼く前に、練った小麦粉の一部を取っておき、次に新しくパンを焼く際に、そのとっておいた古い小麦粉の塊を混ぜる。このように、パン種を古いものから新しいものへ移しながら、保存したのです。このわずかに入れられた古い練り粉のかたまりが、新しいパンの塊全体を膨らませる。僅かでも、全体に影響を与える。全体を変えてしまう力があるというのが、このたとえの中心です。
このようにパン種は、古いものを新しいものに入れて使うため、古くなりすぎたパン種の入った塊が、新しいパンに入りますと、全体をダメにしてしまうことがある。悪い状態で、その影響力が発揮されると、全体にダメージがある。そのため、古いパン種は、悪いもの、悪い影響力を示すものでもあります。そしてどちらかと言えば、パン種は悪いものをたとえる際に用いられることの方が多いのです。
今日の箇所で、天の御国のたとえとしてパン種を用いたイエス様が、別な箇所では、「偽善」にたとえていました。
ルカ12章1節
「そうしているうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに話し始められた。『パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい。』」
パウロも、パン種を悪いもののたとえに用いて、取り除くようにと語っている箇所があります。
Ⅰコリント5章6節~8節
「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」
このように聖書全体からすると、パン種は悪いイメージがありますが、しかしここでは、変える力、影響力に焦点を当てて、語られます。
ところでイエス様が話されたたとえは、三サトンの小麦粉の中にパン種を入れる話となっています。脚注付きの聖書では、一サトンが13リットルと記されています。つまり、三サトンで、約40リットル、約20キログラムの小麦粉。現代の日本で、これだけの量がある場合、何食分のパンが焼けるのか、分かる人に聞いてみたいところですが、ある学者は150人分のパンの材料と換算しています。凄い量。
イエス様が何故、三サトンと言われたのか分かりませんが(当時、三サトンが何かの目安になっていたのかもしれませんが)、言いたいことは、僅かなパン種でも、大きな塊に影響力があるということ。パン種には、変える力、変質する力がある。そして、その変える力が天の御国を示しているのです。
キリストを通してもたらされる天の御国は、人を、世界を変える力がある。神様から離れ、自分中心に生きる者。正しく生きたいと願っても生きられない。正しく生きたと思っても、周りも自分も傷つけてしまう。変わりたいと願っても、変わることが出来ない。罪の悲惨に囚われている者を、変えることが出来る。変える力がある。変わりえないと思っていた人、変わりえないと思っていた世界が変わるとの宣言でした。
以上、からし種のたとえ、パン種のたとえでした。最後に、今日のイエス様の言葉を覚えて生きるとはどのようなことか確認して終わりたいと思います。
天の御国にたとえられた、からし種、パン種。これは、イエス様のなされた御業、イエス様の語られた御教えを表すもの。あるいは、イエス様の御業、御教えを宣べ伝える者たちと言えるでしょう。
イエス様がこのたとえを語られた当時、イエス様の御業を知る者、イエス様の御教えを理解する者はごく僅か。しかし今や、その御業によって造り変えられる者が世界中でおこされ、その御教えを宣べ伝える者たちが世界中にいます。いや他でもない、キリストを信じる私たちが、キリストの御業によって造り変えられ、その御教えを宣べ伝える者なのです。
私たちの生きているこの世界は、罪によって悲惨な状態になりましたが、イエス・キリストがもたらした天の御国への変化によって造り変えられている。その途上にある。全世界にいる神の民は、イエス・キリストから始まりました天の御国の命と力をいただいて、天の御国が完成へ向けて、取り組むのです。
確かに約二千年前、イエス様からこのたとえを聞いた者たちが想像することは出来ないほど、世界中に天の御国は広がってきた。小さな種が巨木となる。僅かなパン種が世界中に影響をもたらしてきた。それは分かります。
しかし同時に、日本に住む私たちは、なかなかそうは思えない側面もあります。日本全体で見ますと、クリスチャン人口は減少傾向にあり、教会数も増えない。一年の間、受洗者が一人もいない教会も多数ある。精いっぱい伝道活動をしていても、なかなか実りが見えない。前進よりも後退、成長よりも衰退と感じられる。
教会というだけでなく、自分自身も同様です。キリストによって造り変えられる。しかし、同じ罪を繰り返し、同じ失敗を繰り返す。大切な人を愛したいと願いながら、傷つけてしまう。職場、学び舎、家庭、地域、様々なところで人間関係が壊れていく。果たして本当に私は変えられているのか、悩みます。
新たな一年が始まります。私たちの目の前にある状況、私たち自身の状態に焦点を当てると、多くの不安や恐れ、心配を抱くことになります。そうではなく、イエス様の言葉に注目したいと思います。天の御国は、からし種のよう。天の御国は、パン種のよう。私が頑張って、世界を良い状態にするのではない。私が努力して、自分を良い状態にするのでもない。イエス様の御業が、イエス様の御教えが、世界と私たちに対して、からし種のような力、パン種のような力を持っている。神様が、世界を良くして下さる。神様が、私を変えて下さる。この神様に期待して、これからの一年の歩みを始めていきたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿