2019年1月27日日曜日

信仰生活の基本(4)「賜物の管理・時間」マルコ1:35~39,ヨハネ13:1


今日の説教は、信仰生活の基本シリーズの四回目。これまで、礼拝、伝道、交わりと三つのテーマを扱ってきましたが、今朝のテーマは賜物の管理です。特に取り上げたいのは、神様が私たちに与えてくださった能力、財産、健康など、様々な賜物の中から、時間と言う賜物についてです。

時間の大切さについては、古今東西様々な格言があります。「時間とは、我々が最も欲しがるものだが、最も下手で、無駄な使い方をするものである。」(ウィリアム・ペン)。「失った富は努力によって、失った知識は勉学によって、失った健康は節制することや医療によって取り戻せるが、失った時間は永久に失われたままだ。」(ロバート・アレン)。「人生とは、今日一日の時間の使い方のことである。」(カーネギー)。いずれも尤もなことばですが、現実はなかなか理想通りにはいかないと感じるのは、私だけでしょうか。しかし、聖書にも、時間の管理について、こう教えられています。


箴言6:611「怠け者よ、蟻のところへ行け。そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。怠け者よ、いつまで寝ているのか。いつ目を覚まして起き上がるのか。少し眠り、少しまどろみ、少し腕を組んで、横になる。

すると、付きまとう者のように貧しさが、武装した者のように乏しさがやって来る。」


 ちっぽけな蟻が夏の季節を意識して働いている。その姿を見よ。その姿に学べと、著者は勧めています。ちょっと耳に痛い、イソップ物語風の格言ですが、神様が時間と言う賜物を意識し、日々すべきことを考えて生きるよう、私たちに望んでいることが分かります。

神様はこの世界を創造した際、時間も創造しました。この世界にあるすべてのものは、時間とともに変化してゆきます。私たち人間や様々な生命は、時間とともに成長、成熟してゆくものとして造られたこと、聖書は教えているのです。特に、私たちは年齢とともに成長を感じたることもあれば、老いを覚えることもあります。時間に追われて大変な一日だったと思うこともあれば、充実した一日だったと感じるたりします。無駄な時間を過ごしてしまったと後悔する時もあれば、なすべきことを果たし終えた喜びを覚える時もあるでしょう。こうして、常に時間のもとで、時間を意識して生きているのが人間。ちょっと難しいことばになりますが、ある哲学者は、人間を「時間的存在」と定義したほどです。

それでは、私たちは時間と言う賜物をどう使うことが良いのか。聖書は、時間の管理について何と教えているのか。今日は、イエス様の生き方、行動から考えてみたいと思います。

さて、最初に読みましたマルコの福音書が描いているのは、イエス様が非常に忙しい一日を過ごした翌日の光景です。


1:35「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。」


前日は安息日でした。それは、イエス様にとって多忙を極める日であったと思われます。先ず会堂に行き、礼拝に参加した際、悪霊に苦しむ男から悪霊を追い出し、解放しました。会堂を出て弟子のシモン・ペテロの家に行くと、熱病を患う姑を癒すことになります。夕方となり、評判を聞いた人々が家にやって来ると、イエス様は様々な病人や悪霊につかれた人に仕え、癒しのわざを行いました。聖書には「町中の人が戸口に集まってきた」とありますから、癒しの働きが夜遅くまで続けられたことでしょう。

その様な一日が終わった翌朝、イエス様は何をなさっていたのでしょうか。「祈っておられた」とあります。イエス様は天の父なる神と一対一、親しく交わることに朝の時間を使っていたのです。恐らく、これはこの日に限ってのことではなかったでしょう。

聖書には、十二弟子を選ぶ際、イエス様が夜を徹して祈る姿が記されています。イエス様の祈る姿を見て、イエス様のような祈りを求める気持ちが起こされたのか、弟子たちが「私たちにも祈りを教えてください」と願ったこともありました。都エルサレムに登った時は、ゲッセマネの園で、弟子たちと定期的に祈祷会を持たれたことも、知られています。

しかし、例え多忙な日を過ごしたとしてもーイエス様が救い主として活動された時期、多忙でなかった日はなかったように思えますがー一日の活動が始まる前に祈りの時間をとること、父なる神と交わることを、イエス様は大切にしていた、習慣としていたことがここから伺えます。けれども、そんな思いを知ってか知らずか、弟子たちは、場所を移動しようとするイエス様の後を追いかけました。


1:36、37「すると、シモンとその仲間たちがイエスの後を追って来て、彼を見つけ、「皆があなたを捜しています」と言った。」


「皆があなたを捜しています」ということばには、弟子たちのある思いが込められていたと考えられます。ひとつは、「主よ、多くの人が癒しを求めて、あなたを探してここに来ようとしていますのに、未だ祈り等行うつもりですか。」そんな軽い非難の響きが伺えます。「忙しい一日が始まると言うのに、あなたは何をしているのですか。祈るより働けではないんですか。」少し責めている気がします。弟子たちの心にあるのは、祈ることより働くことの方が大切であり、常識と言う価値観でした。

二つ目は、彼らが、前日に続き押し寄せてくる群衆を見て、これはイエス様の名が、ひいては自分たちの評判が世間に広まるチャンスと考えたのでしょう。「こんなチャンスを逃す手はあるもんですか。イエス様。彼らを悉く癒して、あなたとあなたに従う私たちの名が挙がるよう、頑張りましょう。」そう、イエス様をせっつき、動かそうとした様に見えます。この時、弟子たちを動かしていたのは、祈るより働くことが重要だと言う価値観と、名誉欲と思われるところです。

しかし、それに対するイエス様の応答は、恐らく、弟子たちの期待に反するものでした。


1:38,39「イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって、彼らの会堂で宣べ伝え、悪霊を追い出しておられた。」


既に、朝の祈りの中で、今日優先すべきことが何であるかを、イエス様は決めておられたのでしょう。「近くにある別の町や村へ行き、そこでも福音を伝える。そのために、わたしは出て来たのだから。」もちろん、イエス様は、病に苦しむ者たちを癒す働きを軽視していたわけではありません。苦しむ人を癒すと言うあわれみの働きと、福音を伝える働き。ふたつの働きを通して神の国の到来を示すこと。これが、イエス様の人生にとって最も大切なこと、使命だったのです。その様な思いの中で、この日は福音を伝える働きを別の町で行うことを優先する。これがイエス様の計画でした。

イエス様とて、昨日に続いて今日も同じ町で癒しのわざを行えば、名声を得ることができることなど分かっておられたでしょう。しかし、それをイエス様は選ばれなかったのです。忙しさに流されぬよう、祈りの時間を習慣とする。名誉欲に動かされたり、人々の声に左右されることがないよう、天の父が自分をこの世に遣わされた目的、みこころに従うことを第一とする。これが、イエス様の日々の行動の土台にあったことを確認したいと思うのです。

神様と交わり、聖書を読み、祈る中で、神様が自分に託された働きを自覚する。神様と隣人を愛するために、限られた時間の中で、自分には何ができるか、何をすべきかを思う。そして、今日一日を何を優先すべきかを考え、計画を立てる。イエス様と同じく、私たちにも神様から託された働きがあります。父や母としての働き。夫や妻としての働き。職場での働き。教会員としての働き。広く社会や世界の一員としての働き。例え、働きは違っても、イエス様と同じように考え、時間を使い、計画を立てる。イエス様が示された、この様な時間管理を、私たちも目指したいと思うのです。

次に注目したいのは、一日や一週間よりももっと長い時間、人生全体と言う視点で、ご自分の働きについて考え、計画的に行動しおられたイエス様の姿です。


ヨハネ13:1「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」


ここには、この時が過ぎ越しの祭りの前の日で、「イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。」とあります。イエス様は死の時を思い、この世を去って天の父のもとに行くことを意識しておられました。その上で、弟子たちの足を洗って、仕える僕としての生き方を示し、過ぎ越しの食事を祝い、遺言ともいうべき教えを語り、彼らのために祈りをささげたのです。そして、なすべきことをなした後、最後にして最大の働き、十字架の死に臨むことになります。

イエス様の十字架までの歩みは、大きく三つに分けられます。前半は、先にマルコの福音書で見たように、故郷ガリラヤの町を巡り、広く福音を伝え、癒しの働きを行った時期。中盤は、主に都エルサレムで、宗教家と論じ、神様の恵みと真理を説き明かすとともに、弟子たちを訓練された時期。終盤は、弟子たちに仕えること、教えることに全力を傾けた時期です。この箇所に描かれているのは、終盤も終盤、人生の最終盤を迎えたイエス様の姿です。

私たちの人生にも時期があります。よく言われるのは、人生の四季と言うとらえ方です。

誕生から20歳までの春、これは夏の活動期への準備の時期で、知的にも体力的にも精神的にも大人として成長してゆく時期です。夏は20歳から40歳。何でもできる時期。試行錯誤の時期で、様々なことに挑戦して失敗したり、挫折したり、悩んだり喜んだり。最も活動が盛んな時期とされます。

秋は40歳から60歳。収穫の秋で、様々なことを成し遂げてゆく、人生の使命を果たす充実期とも言われます。最後の冬は、60歳以降死に至るまで。成熟の時、人生の総括の時です。それまでの人生を総括して、知識、経験、能力、金銭など、自分が与えられたものを他の人に分かち合う時期とされます。

 これは、一般的な考え方であり、全ての人に当てはまるものではないかもしれません。しかし、私たちに対する神様のみこころは生涯変わらないとしても、健康、社会的立場や責任、時間の余裕、能力など、各々の時期で変わるものがあります。ですから、自分が今人生のどの様な時期にいるのかを踏まえて、時間の使い方を考える。人生のこの時期、クリスチャンとして何に価値を置くのかを考え、計画を立て生活する、時間を管理することは、どの時期であっても大切なことではないでしょうか。

もうずいぶん前のことになりますが、「七つの習慣」と言う本が評判になりました。この中に参考になる時間管理の考え方がありますが、その一つは、人生には四つの時間の領域があると言うものです。

第一の領域は、緊急つまりすぐに対応する必要があり、重要な領域です。締め切りのある仕事、職場や隣人との人間関係の差し迫った問題、自分や家族の病気や、災害などに対応する時間です。第二の領域は、緊急ではあるけれども、それほど重要ではない領域です。買い物など日常生活の雑事、重要ではない電話や表面的、儀礼的な接待などへの対応が、ここに含まれます。

第三の領域は、緊急でもなければ、重要でもない領域です。暇つぶし、だらだら電話、関心のないテレビやインターネットに使っている時間などが含まれます。最後に、第四の領域、これが大切なのですが、緊急ではない、つまりすぐにしなくても生活には何の影響もないように見えることで、しかし人生全体を考えると、非常に重要な領域があると言うのです。そこには、人間関係作り、健康維持、人生の先を考えて計画を考えること、心から楽しめ、リラックスできる遊び、親として職業人として能力を向上するために学ぶことなどが入るとされています。クリスチャンであれば、ここに聖書を読むこと、祈り、神様との交わりなどが入るかと思います。

そして、著者は多くの人は、第一の、緊急で重要な領域と第二の、緊急だけれどそれ程重要ではない領域、それに第三の、緊急でもなければ重要でもない領域で時間を費やすことが多く、埋没していると言い、時間の過ごし方を振り返り、第二、第三の領域に費やしている時間を、第四の領域に持ってゆくことを勧めています。第四の時間の領域、緊急ではないけれど、人生全体と言う視点で見る時、非常に重要な事柄に時間を使うことが、人生の充実につながると勧めているのです。

皆様はどうでしょうか。生活を振り返ってみて、どの領域に時間を使っていることが多いでしょうか。第四の領域に使っている時間はどれぐらいあるでしょうか。イエス様の様に、自分がこの地上に生かされている目的を考え、神様に託された働きについて思いを巡らし、最も大切なことに時間を使っているでしょうか。神様に与えられた時間を正しく管理できているでしょうか。

とは言っても、私たち人間が、イエス様の様に正しく時間を管理することは、本当の難しいと思います。私自身、いつのまにか緊急だけれどそれ程重要でないことや、緊急でも重要でもないことに時間を費やしてしまっていることに気がつきます。切羽詰まった締め切りや対応すべき問題に忙殺され、長い目で人生を考える時非常に重要なことに取り組む時間が取れないことが多くあります。しかし、そうだからと言って、計画を立てて時間管理をすることに、意味がないとは思いません。

最後に考えたいのは、正しく時間を管理することが中々できない私たちが、それを続ける意味です。第一に、私たちは計画を立てることによって、自分がクリスチャンとして何を大切にすべきかを確認することができます。また、計画が実行できたかどうか、評価することによって、思いや願いとは別に、実際に自分が何を大切にしているかに気がつき、修正してゆくことができます。こうしたことを繰り返すことで、私たちは神様のみこころに従って生きることを身に着けてゆけると思うのです。

 第二に、計画が思った通りに行かない時、私たちは神様に信頼することを学びます。皆様も経験されている通り、計画通りに行く一日、一週間など人生にはありません。体調を崩したり、思いもかけないトラブルが起こったり、人の訪問があったりして、計画がひとつもできなかったと言う日もあるはずです。しかし、そのことを通して、私たちは自分が建てた計画を完全に実現できるお方は神様だけ。私たちは人間と言う被造物に過ぎないと弁えることができるのです。信頼すべきは、自分でもなく、自分の建てた計画でもなく、神様であることを知るのです。


箴言3:56「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」

2019年1月20日日曜日

信仰生活の基本(3)「交わりの祝福」詩篇133:1~3


 年が明けてから数回の礼拝にて、信仰の基本的事柄をテーマに説教するよう取り組んでいます。第一週が「礼拝」、第二週が「伝道」そして今日は「交わり」がテーマとなります。
 私たちは「交わり」が、私たちの人生に大きな影響力を持っていることを知っています。夫婦、親子、家族、友人、同じ志を持つ者、教会の仲間。大切な人、愛する人、憧れの人との関係や共に過ごす時間は、私たちの人生の中で極めて重要なものです。交わりを通して、喜びや感謝は倍に。交わりを通して、苦しみや悲しみは半分に。交わりの中で、信仰生活の取り組み方、情熱や能力や知識、積極的な思いや良い習慣が、人から人へ伝わります。神様は様々な方法で恵みを下さいますが、「人」を通して下さる恵みには格別なものと感じます。仮に私たちの人生から、交わりが無くなるとしたら、喜んで生きることはとても難しいものとなる。自分の人生に与えられた「交わりの祝福」と聞いて、皆さまは何を思い浮かべるでしょうか。
 しかし、「交わり」の持つ影響力は、必ずしも良いものだけではありません。一般的に、人が抱える悩みのうち九割以上は人間関係に関するものと言われます。交わりを通して、傷つけられること、傷つけてしまうことに、私たちは苦しみ、悩みます。交わりの中で、良いものが伝わるだけでなく、不道徳、不品行、怒りや憎しみ、悪い習慣を受け取ること、与えてしまうことがあります。そのため、私たちは時に交わりを喜べない、交わりを避けようとする。本来良いものと分かりつつ自分で交わりを壊してしまうことがあります。自分の人生で、交わりで苦しんだこと、交わりを避けようとしたことと聞いて、皆さまは何を思い浮かべるでしょうか。

 なぜ「交わり」は良くも悪くもなるのでしょうか。本来、人間は交わりを喜べる者として神様に造られました。それが罪の結果、神の愛を受け取ることが出来なくなり、互いに愛し合うことが出来ない存在となる。罪の結果は、交わりに色濃く出るのです。しかし、イエス様が下さる救いは、罪からの解放でした。キリストが下さる恵みの一つは、罪人を本来の交わりが出来る者へと造り変えられていくというものです。
キリストを信じる私たちは、罪の結果、正しく交わりを持つことが出来ない者から、本来の交わりを持つことが出来る者へ変えられている。その途上にあります。「神様の愛を受け互いに愛し合う」、この本来の交わりを知る者として。キリストによって造り変えられている者として。しかしまだ罪の影響があり、周りの人を傷つけ、悪影響を与えてしまう者として。どのように「交わり」に向き合ったら良いか。どのような思いで「交わり」に加わったら良いか。今日は一つの歌から、考えていきたいと思います。

 詩篇133篇1節~3節
見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

 詩篇の中に燦然と煌めく「交わり」の賛歌。交わりに対する恐れや心配など一切見えない。「なんという幸せ、なんという喜び」と喝采を上げる、ひたすら明るい歌。それもたった三節、短く言葉がまとめられています。「仲良し万歳、油、露、祝福」と詠めば、覚えることも簡単。詩人が味わう交わりの祝福、友情の幸福感に誘われます。

 ところで、この歌は詩篇百二十篇から始まる「都上りの歌」と言われる連歌の一つです。十五の歌が連なる、十四番目がこの歌となります。
 「都上りの歌」とは、その名の通り都エルサレムに向かう際の心情を歌ったもの。しかし、ただ都に向かうのではなく、エルサレムにある神殿を目指して上っている。巡礼歌、礼拝者の歌です。この連歌には、「遠方の地にいる者が神殿を目指し、礼拝をささげ、帰路に着く」流れがあり、交わり賛歌もその中の一つとなります。この流れを少し追ってみますと、

 詩篇120篇5節~6節
ああ嘆かわしいこの身よ。メシェクに寄留しケダルの天幕に身を寄せるとは。この身は平和を憎む者とともにあって久しい。

 「都上りの歌」は、都から遠く離れた地に住む詩人が、苦境に立たされながら、望郷の思いを歌うところから始まります。望郷と言っても、故郷に思いを馳せるというだけでなく、神殿を、礼拝を渇望する歌となります。(イスラエルの地から見ると、メシェクは北方、ケダルは南方です。「メシェクに寄留し、ケダルの天幕に身を寄せる」とは、都、礼拝からしばし離れている状況を歌ったものと思われます。)
 しかし、実際に都に向かうのには様々な困難がある。どうしたら良いかと歌が続きます。
 詩篇121篇1節~2節
私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。

 詩篇全体の中でも非常に有名な歌。これは都上りの歌の第二歌でした。礼拝に向かう途上、山がある。その山を見上げて恐れを抱きます。登山、行楽ではない。旅の困難、危険を案じてのこと。とても乗り越えられない。助けが必要。どうしたら良いか。もとより、どこから助けが来るかは、礼拝を望む詩人はよく知っていること。しかし、ここで今一度、確かめるのです。助けはどこから来るのかと自問自答し、すぐさま「私の助けは主から来る。」と告白する。礼拝に加わることが出来ることが、本来は大きな恵みであること。霊肉の健康、あらゆる状況が整えられて、礼拝をささげることが出来る。その恵みは、主なる神様が下さっているからと覚えます。

 こうして都エルサレムに着いた詩人の喜びが続きます。
 詩篇122篇1節~2節
『さあ主の家に行こう。』人々が私にそう言ったとき私は喜んだ。エルサレムよ 私たちの足はあなたの門の内に立っている。

 待ちわびた礼拝を目前にして、「さあ、主の家に行こう」との呼びかけを喜ぶ。都エルサレムの門をまたぎ、「エルサレムよ、私たちの足は、あなたの門の内に立っている。」と言うだけで嬉しい。この詩人の喜びを前に、果たして私は教会に来ることを、礼拝をささげることを、どれ程の喜びとしていたのかと心探られます。(また、この歌はこの後で、都の街並みに焦点を当て、都賛歌と続いていきます。)

 このように、遠方の地から都エルサレムでの礼拝を目指してきた詩人が、エルサレムに到着しました。続く百二十三篇は、「わなたに向かって私は目を上げます。」と始まり、遂に礼拝をささげることが出来た詩人の姿が描かれます。礼拝を通して、神様との交わりで味わったこと、考えたこと、確信したこと、決心したことが続々と歌われて行きます。
時間の都合で全てを確認することは出来ませんが(礼拝とは何かという視点で、都上りの歌を通して詠むことをお勧めします)、有名なところをいくつか見てみますと、
 詩篇126篇1節~2節
主がシオンを復興してくださったとき私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき私たちの口は笑いで満たされ私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき諸国の人々は言った。『主は彼らのために大いなることをなさった。』

 背景にあるのはバビロン捕囚からの帰還、復興のこと。歌われているのは、救いの喜び。罪の奴隷から神の子とされた。壊れた人生が、回復された。神の民の歩みとしても、自分の歩みとしても、神様が下さる救いは現実のものとは思えない程素晴らしい、夢のようなもの。それを味わう時、笑いや喜びで満たされたという歌です。礼拝の度に、この喜びを味わうようにと招かれます。

 それでは、礼拝では神様を見上げること、罪や救いにだけに焦点を当てるのかと言えば、そうではない。日々の生活、全てにおいて、神様を覚えることも大事なこと。
 詩篇127篇1節~2節
主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起き遅く休み労苦の糧を食べたとしてもそれはむなしい。実に主は愛する者に眠りを与えてくださる。

 「宗教とは心の問題を扱うもの。心の平安さえ得られれば、それで十分。」と考える人がいます。しかし、聖書はそうは言いません。礼拝の中で、自分の仕事のこと、日々の糧のことも考えるように。勤勉、努力、精進したところで、神抜きの歩みはいかに虚しいか確認するよう歌われます。どのように仕事に向き合っているか、どのように家庭生活に向き合っているか。礼拝の度に、生活の全ての分野で、神様を信頼することを再確認する。

 このように都上りの歌は、礼拝を通して受ける恵みを様々な表現で繰り返し歌っているのです。その終わりに、今日確認したい交わり賛歌が出て来ます。(連歌の最後、百三十四篇は、帰路に着く時の歌、頌栄、祝祷の歌となっています。)
 詩篇133篇1節~3節
見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

 この一篇だけ読むのか、都上りの連歌の一つとしてこの歌を読むのか、違います。交わり賛歌と言っても、これは礼拝に集まる者たちの交わり。同じ神様を信じる者たちの交わり。仲良し万歳と言っても、ただ仲が良いことが素晴らしいというのではなく、神の民が集まることの喜び、聖徒の交わりの幸いを歌っているのです。
 皆さまが詩人として、信仰の仲間と過ごす喜びを歌うとしたら、何にたとえるでしょうか。ともに神様に賛美をささげ、ともに神様に祈り、ともに御言葉を聞くこと。ともに食事をし、ともに奉仕をささげ、ともに伝道する。ともに悩み、ともに苦しみ、ともに戦う。ともに感動し、ともに感謝をする。互いに愛し合い仕え合う、その交わりの喜びを何にたとえたら良いでしょうか。

 この詩人は、交わりの喜びを、一つは「油」になぞられました。交わりの祝福は、「アロンに注がれた貴い油」のようだ、と。アロンと言えば、モーセの兄にして、初代の祭司に任じられた人。油を注ぐというのは、神様と特別な関係になり、使命が与えられる。神様の役割を担うために、聖別される。聖霊なる神様の特別な恵みが注がれることを意味します。祭司に任命される際、頭に注がれた油は、ゆっくりとしたたって、髪を伝わり、顔を伝わり、ひげに流れる。ひげからしたたり落ちる油は、衣の端まで濡らしていく。香り立つ油が、全身を潤す。神の民の交わりは、アロンに注がれた貴い油のように素晴らしい。
 もう一つは、「露」にたとえています。交わりの祝福は、シオンの山に降りる露のよう。エルサレムがあるシオンの山より、北に百五十キロのところに、ヘルモン山があります。標高二千八百メートルの大きな山。イスラエル地方は地中海性気候で雨の少ない時期、このヘルモン山からの風は、この地方全土を露で湿らせ、作物を育ませる。神様を信じる者の集まりは、この露のように素晴らしい。

 皆さま、分かりますでしょうか。なるほどと思うでしょうか。このあたりは、詩のセンスが問われるところ。油にしろ露にしろ、上から下へのイメージ。厳かさ、雄大さ、芳醇、豊穣のイメージも加わるでしょうか。
 四日市キリスト教会の初代牧師、小畑進先生は、交わりの祝福をこのように表現していることについて「アロンのおひげの滑り台での油の遊戯が飄逸とすれば、巨峰ヘルモンの滑り台による天露の遊弋という大景観。至近から遠大へ。剽軽と雄偉と。双方を合わせて、兄弟相睦ぶ幸福を歌い上げるのです!・・・そのように見て、そのように歌って、兄弟ともども群れている楽しさが、一層こみ上げてくるではありませんか。」と評します。
正直言いまして、私はあまりピンとこない。残念無念です。もっと詩が分かる人間になりたい。「なるほど」、「そうだ」、「上手い」と言いたい。しかし、詩人が言いたいことは分かります。ともかく、素晴らしいと言いたい。それは伝わってきます。

 それでは、神の民の交わり。キリスト者の交わりは、それ程素晴らしいものでしょうか。実際に私たちが味わう交わりは、どうでしょうか。
はい、確かに素晴らしい。しかし、素晴らしいだけかと言えば、やはりそうではない。神の民の交わりにも、罪の影響はあり、傷つけ合うことが起こります。教会の交わりの中で、励まされ、勇気づけられ、喜びに満たされることもあれば、苦しむこと、傷つくこと、怒りや憎しみに満たされることがあります。この詩人のように、手放しで素晴らしいと言い切れるかと言えば、そうは思えない状況がある。
この詩人は、信仰者の交わりで傷ついたことがなかったのでしょうか。交わりの負の側面は無視したのでしょうか。なぜ交わりが幸い、祝福だと言い切れるのか。基本的には良いものだけど、時には傷つくこともあるとは言わず、ひたすらに良いものと歌いきるのは何故か。
 それは、「主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じたから」でした。私たちがどうであるか、ではない。神様が、信仰者の交わりに祝福を命じたから。それも、「とこしえのいのち」と名付けられた祝福を、神様が与えるからなのだと言うのです。

 私たちが交わりを持つ上で、最も重要なことは、この視点です。キリスト者の交わりについて、神様が何と言われているかを忘れないように。
 自分の経験、自分の姿に注目すると、交わりが怖くなります。傷つくことはないか。苦しむことにならないか。自分のような者が他の人と接することで、傷つけてしまうこと、苦しめてしまうことはないか。悪影響にならないか。自分の為した悪、自分のされた悪によって、交わりを避けたい。面倒に思うようになることがあります。
何しろ私たちは、良いと思ってすることでも、ひどい結果を招くことがあります。ある意味で、私たちは徹底的に罪人。自分の努力や人間性では、本当の意味で人を愛することなど出来ない程、罪にまみれた者です。しかし、そのような私たちの集まりでも、神様は祝福を命じられた。とこしえのいのちの祝福が命じられているとの宣言を、今日はしっかりと受け止めたいと思います。

 マタイ18章20節
二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

 私たちの交わりには、主なる神様がとこしえのいのちの祝福を命じておられる。私たちの交わりには、いのちであるイエス様がともにいて下さる。

2019年1月13日日曜日

信仰生活の基本(2)「伝道~伝える者として~」ルカ5:1~11


聖書の福音を伝える。世界の造り主、私たちの救い主を伝える。「伝道」。教会の中で、これまで何度も伝道の重要性は語られてきました。キリストを信じる者は、自分が罪から救われて終わりではない。自分の受けた福音を、まだ知らない人に伝える働きに就く。主イエスを信じる者は、福音を伝える使命を得ることになる。この「伝道」に、私たちはどのような思いで取り組めば良いのか。イエス様がガリラヤ湖の漁師たちを弟子にした場面を中心に確認していきたいと思います。
 ルカ5章1節~3節
「さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。」

 イエス様の十二人の直弟子のうち、特に有名なのはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人ですが、この三人は皆がガリラヤ湖(ゲネサレ湖)の漁師でした。この三人がイエス様の弟子となる有名な記事が今日の箇所ですが、ルカは主にシモン・ペテロに焦点を当てて記しています。(他の福音書によると、この時、ペテロの兄弟アンデレもイエス様の弟子になっていることが分かります。またペテロは、聖書の中で四つの名前で呼ばれています。シモン、シメオン、ペテロ、ケファ。今日の記事にも、シモン・ペテロという名前が出てきます。)
 罪人を救うために生まれたイエス・キリスト。しかし、ご自身が約束の救い主であることを公にするまで、イエス様は大工をしつつ家族に仕えていました。田舎町の大工。それが、およそ三十歳になり、救い主としての活動を開始されますが、これは活動を開始して間もない頃。それでも、群衆はこのイエスが語る言葉を聞こうと集まっていました。
 約束の救い主が神のことばを語る。これ程、厳かで重要な機会はないと思いますが、その場面は実に日常的でした。静まり返った会堂の中とか、装飾きらびやかな建物でしか話さないのではない。群衆が集まったら、そこで話をする。この時は湖畔で、群衆が押し迫ってきたので、生臭い小舟に乗り込んで話をされる。大工仕事で鍛え上げられた体、湖畔にあふれる群衆を前に声を響かせる姿。野性味あふれる、健康的なイエス様の姿です。
 ところで、この時イエス様はシモンの舟に乗り込んでいますが、イエス様とシモンは初対面ではありません。既に知り合いになっている。それもシモンからすれば、姑の病を癒してもらっていて(4章38節~39節)、イエスが特別な方であるという思いはあったはずです。イエス様がこの時、この湖畔にいたのも、シモンたちに会いに来たところに、群衆が押し迫ってきたため、神のことばを語ったという場面なのかもしれません。

 湖上の説教、舟の上からの伝道。果たしてこの時は、どのような話をされたのか。気になるところですが、ルカはイエス様が語られた内容は記さずに、イエス様とペテロのやり取りに焦点を当てます。
 ルカ5章4節
「話が終わるとシモンに言われた。『深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。』」

 話が終わると、イエス様はシモンに対して、深みに漕ぎだして網をおろせと命じます。これは不思議な勧め。何しろ、ガリラヤ湖での漁は夜中に行うもの。それも、浅瀬で行うことが一般的でした。何故なら、そこに魚がいるからです。昼間に、それも深みに漕ぎだして網をおろすようにとは、素人の言いそうなこと。
 この時、シモンは何をしていたのかと言えば、夜通し働いた後、網を洗っていました。仕事を終え、後始末をしていた時。これでまた、網を湖の中にいれたら、一切釣れなかったとしても、また網を洗わなければならない。更に言えば、この日は漁師としては最悪の日。夜通し働いて、何一つ魚が取れなかった日。雑魚一匹取れなかった。ガリラヤ湖出身の漁師シモンが一晩頑張って、一匹も釣れなかった。その後片付けをしている時に、大工であるイエスの勧めが、網を下すように、でした。自分がシモンの立場だとしたら、この言葉をどのように受けとめるのか。
 ルカ5章5節
「すると、シモンが答えた。『先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。』」

 シモンは一応、現状を伝えました。夜通し働きましたが何一つ取れなかったこと。それでも、網をおろしてみましょうと言います。
姑を癒してもらった。多くの群衆が集まる大先生。自分自身も、この時語られていたイエス様の話を側で聞いていました。普通の人ではない。この方が言うのであれば、やってみても良いのではないかと思った。
 そして、実際にそれを実践してみると何が起こったのか。
 ルカ5章6節~7節
「そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。」

 網を下したシモンの足腰に力が入る。重い、重すぎる。そもそも、シモンはどれ位の魚が獲れると考えていたのでしょうか。一晩中働いて、一匹も獲れなかった日。果たして何匹釣れるのか。シモンの予想がどのようなものだったのか分かりませんが、少なくとも想像以上だったことは分かります。自分の舟だけでは引き揚げることが出来ず、仲間を呼び、二艘の舟がいっぱいになる程の魚を獲ることになりました。暫し湖上での奮戦。網を引き揚げ、魚と格闘。この間、どのような会話がなされたのか。「網が破れる。」「舟が沈む。」「まさか。」「こんなことが。」「何故。」群衆たちのどよめきも聞こえる場面。

 このような場面。一般的な考え、あるいは自分の考えよりも、神様の言葉に従う時に大きな恵みを受けるというのは、聖書に繰り返し記録されるものの一つです。神様の言葉、イエス様の言葉に従った時、その本人が想像する以上の恵みを受ける。人間の常識、自分の思いよりも神様の言葉、イエス様の言葉、聖書の言葉を優先する時に、大きな恵みを受けると教えられる場面の一つです。
 自分の思いよりも、聖書に従うことを優先させる。そのように決めて、実行したことはあるでしょうか。その結果、恵みを頂いたという経験はあるでしょうか。この時、シモンはイエス様の言葉に従って、想像を越える大漁を経験します。しかし、イエス様の言葉に従ったら、大漁になる、仕事が上手くいくというのが恵みの本質かというとそうではありません。大漁であったというのも感謝なことですが、それ以上の恵みが与えられています。神のことばに従う時、どのような恵みを受けるのか。
 ルカ5章8節~10節
「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。『主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。』彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。」

 あまりの大漁に網が破れそうになり助けを呼び、二艘の舟が沈みそうになる。必死に魚と格闘して呆然とした後。ペテロは驚愕に襲われます。目の前にいるイエスが、誰なのか分かるという驚きです。
 ペテロは網をおろす前、イエス様に対して「先生」と呼びかけていました。姑の病を癒してくれた。多くの群集が話を聞きにくる人。自分も、その言葉を聞いて、確かに感銘を受けた。だから、「先生」と呼んだのです。しかし、実際にイエス様の言葉を実践してみて分かったのは、ここにいるのは、ただの「先生」ではない。先生どころのお方ではない。イエス様の言葉に従って、その結果を体験したペテロは、この方はこの世界を支配されている方。神である方だと直感し、「主よ」と呼びかけるのです。
 神様の言葉、イエス様の言葉、聖書の言葉に従う時に頂く恵みの本質はこれです。つまり、誰がこの世界を治めているのか。誰が真の神なのか気が付くということです。この時、イエス様の言葉に従ってペテロが頂いた恵みの最大のものは、この方が「主」だと分かったことでした。この時ペテロが味わった驚き、恵みを、私たちも信仰生活の中で繰り返し味わいたいものです。

 ところで、ここで興味深いのが、目の前にいる方が「主」である、神であると分かった時のペテロの姿です。魚で溢れかえった舟の上で、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言います。小舟に同船し、自分と同じく魚に埋もれている方が、世界を造り、この湖の一切を支配したもうお方、人となられた神であると知って、平伏する。主を知る、神を知る時に、人は己の卑しさ、己の罪深さを知ることになる。神様を知り、その結果、己の罪深さに目が開かれるというのも、この時ペテロに与えられた重要な恵みでした。

 神である方を知る時に、自分の罪深さを知る。このペテロの姿で、皆さまは思い出す場面があるでしょうか。先週の礼拝説教の箇所、預言者イザヤが経験したことがまさにそうでした。(ペテロやイザヤ以外でも、聖書の中から同様の経験をした人たちは何人もいます。)
 イザヤ6章1節~5節
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満ちる。』その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。私は言った。『ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。』」

 真に神様を意識する時、人は何よりも己の卑しさを知ることになる。神様がともにおられることを覚える時に、自分の罪深さを意識することになる。喜びと平安のうちに、神様を覚えることがあるでしょう。感動、感謝とともに、神様の前で首を垂れることもあるでしょう。しかし、それだけだとしたら、本当に神を知る者と言えるのか問われるところ。
 イザヤにしても、ペテロにしても、神である方を前に自分の罪深さを知るという経験は貴いもの。神を知り、己を知る。己を知り、ますます神を知る。この恵みも、私たち皆で頂きたいものです。

 さて、自分の罪深さを自覚し、私から離れて下さいと申し出たペテロに対して、イエス様は何と言われたでしょうか。
 ルカ5章10節~11節
「シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。』彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。」

 人間を捕るようになる。これは当然、イエス様の言われた通りにした時に、多くの魚が獲れたこの場面を下敷きとして、言われた言葉。魚を獲る漁師であった者たちが、人間を捕る者となる。
 この人間を捕るという言葉は、面白い言葉が使われていまして、「捕って生かす」という意味の言葉です。漁師が魚を獲るのは、売るため、食べるため。強いて言えば、殺すために獲る。しかし、ここでイエス様が言われているのは、「人間を捕えて生かす者」となる、という言葉。
 罪に囚われ死んでいる者たちを、捕って生かす者となる。福音を宣べ伝える者、伝道する者となるということ。このイエス様の言葉に、ペテロたちは従ったとして、この段落は閉じられます。

 この時までに、ペテロはイエスと関係がありました。自宅にも招き、イエス様が伝道する際舟を貸し、非常識と思える言葉にも従いました。しかし、ここにいたって、本格的にイエス様の弟子になったと言えるでしょう。この時から、人間を捕る者、伝道する者とされていくのです。
 何故、この時だったのか。イエス様は、ペテロに対して、「人間を捕る者となる」と言う機会は色々とありました。ペテロの家に行った時。ペテロの姑を癒した時。この日、群衆が集まる前に、「人間を捕る者となる」と呼びかけることも出来ました。しかしペテロが、イエスが誰で、そのイエスの前で自分がどのような者か、分かるまで待っておられたのです。
 何しろ、人間を捕るということ、福音を伝えるとは、まさに主イエスが誰で、神の前でその人が罪人であることを伝えること。主イエスが誰で、自分が罪人であるということが分からないまま、伝道する者とはなれないのです。

 神様を知り、自分の罪深さを知った者が、神のことばを伝える者となる。これもまた、イザヤにそのまま当てはまることでした。神を知り、自分の罪深さを知ったイザヤと、神様とのやりとりが次のように記録されていました。
イザヤ6章8節
「私は主が言われる声を聞いた。『だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。』私は言った。『ここに私がおります。私を遣わしてください。』」

ペテロやイザヤの姿に、伝道する上で最も重要なこと、福音を伝える上で最も重要なことの一つを覚えます。
私たちが「伝道」について考える時。多くの場合、神様のこと、イエス・キリストのこと、教会のことを、どのように伝えるか考えます。どのようにしたら、教会に来てもらえるか。人が多く集まる企画、案内とはどのようなものか。何をすることがより効果的なのか。あの人を誘うために、どのように声かけをしたら良いか。
これらのことを考えることは大事なこと。重要なこと。これからも、私たちの出来ることは何か考え、精いっぱい知恵を絞って、伝道活動をすることに取り組みたいと思います。しかし、いかに伝えるかだけしか考えていないとしたら、恐ろしいことでした。
何しろ、私たちが伝えたいのは、「神様であり、イエス・キリストご自身。そして、その方の前で、罪人である。」ということ。この福音を伝えようとしている私たち自身が、神様を知ろうとしない、主イエスを知ろうとしない、自分の罪深さを自覚しようとしないとしたら、一体何をしたいのかと問われることになります。
伝道する上で最も重要なことは、私たち自身が、絶えず、神を知り、己を知ろうとすること。いかに伝えるのかだけを考えることのないようにと確認します。

 一年の始め。キリストを信じる者として、与えられた重要な使命の一つ。伝道をどのように果たすか、よく考えたいと思います。私たちの周りにいる、まだキリストを知らない方にキリストを伝える。福音を伝える。教会に誘い、伝道活動を行う。そのために、知恵を絞り、機会を伺い、よく祈りたいと思います。しかし、最も大事にすべきことは、自分自身が、神様を知り、己を知る者となること。己を知り、ますます主イエスが必要であると覚えることでした。

2019年1月6日日曜日

信仰生活の基本(1)「礼拝」イザヤ6:1~13


新年明けましておめでとうございます。2019年の歩みが始まりましたが、皆様はどの様な思いで新しい年をスタートしたでしょうか。これをしてみたいと言う目標、計画はあるでしょうか。ここ数年、新年最初の1月、2月の礼拝では、信仰生活の基本と題して、礼拝、伝道、交わり、聖書、そして奉仕や献金、賜物の管理等、様々なテーマについて学んできました。

 キリスト教信仰をもって数十年と言う様なベテランのクリスチャンにとっては、もはや当たり前と思われる事柄ばかりかもしれません。しかし、当たり前と思われる事柄だからこそ、何度でもその意味と恵みを確認し、新たな思いで取り組んでゆくことが大切ではないかと思うのです。

 今朝、2019年最初の主の日に取り上げるテーマは礼拝です。普段、私たちは毎週の礼拝において、何を心に留めているでしょうか。そもそも礼拝において何を心に留めるべきかを考えたこと、意識したことはあるでしょうか。一年で50数回行われる礼拝。各々の礼拝において何を心に留めるべきか、よく意識して臨むのと、ただ漫然、漠然と臨むのとでは、大きな違いが生まれてくるのではないかと思います。

礼拝に臨む際、心に留めるべきこと、心に留めた方が良いと思われることは幾つもありますが、今朝私たちは、旧約のイザヤ書を通し、礼拝において心に留めるべきことを三つ確認したいのです。

先ず一つ目は、私たちが礼拝すべき神様とはどういうお方かを、心に留めることです。よく聖書の神は人格的な神様だと言われます。それは、聖さ、親切、柔和、誠実など、神様に様々な性質があることを意味しています。創造、導き、救い、さばきなど、神様が生きて働かれるお方であることをも示しています。

それでは、今日の箇所、神様はイザヤに対して、ご自身をどの様なお方として示されたのでしょうか。


6:1~4「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。」


1節に「ウジヤ王が死んだ年」とあります。ウジヤは歴代の王の中で善王として数えられています。事実ウジヤの時代、南ユダの国は繁栄と安定を保っていました。しかし、晩年には祭司しか行うことのできない務めを自ら行ったことで、神のさばきを受け、生涯に汚点を残します。

紀元前740年に起こったウジヤ王の死以降、南ユダは近隣の国からの圧力にさらされ、政治的に不安な状況に陥りました。また、1章から5章には、民の間に偶像崇拝と不正が蔓延り、人々のささげる礼拝は形式的なものに堕し、神様が心を痛めていたことも記されています。

その様な時、都の神殿で、イザヤは今朝の私たちと同じく、神様を礼拝していたのでしょう。その礼拝において、イザヤの目の前に突如、高くあげられた神の御座が現れ、その上では、セラフィム達が、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」と高らかに神を賛美していたのです。

セラフィムはみ使いの一種で、聖書ではここにだけ登場します。「聖なる」と言うことばを三度繰り返していること、また、顔と足とを翼で覆いつつ飛んでいる姿から、み使いは聖なる神を意識して礼拝しています。さらに「万軍の主」と言うことばが示すように、この世界のすべてのものを創造し、支配する王として、神様を賛美しているのです。しかも、神殿の土台が揺らぎ、内部が煙で満たされる程はっきりと、神様はご自身を示されたとあります。

このことを通して、イザヤは自分が礼拝すべき神様が聖なる主であることを、心に留めることができたのです。

二つ目は、神様が示す罪に心を留めることです。この時イザヤは、セラフィムとともに、神様を賛美することができたのでしょうか。そうではありませんでした。イザヤは「ああ、私は滅んでしまう」と告白せざるを得ませんでした。自分が神様を賛美する資格のない者であることを、心の底から感じていたのです。


6:5「私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」


イザヤは、この時既に預言者としての活動を始めていました。まだ若く20歳代前半の若者であり、身分の高い家の出身であったとも言われます。イザヤは預言者として、同胞に対して嘆き、怒り、失望し、さばきのメッセージを語ってきました。そして、この時の礼拝で、神様はその様なイザヤに現れ、彼に欠けている点があることを示されたのです。

時に、私たちは神の救いにあずかり、熱心に信仰を燃やす時、同時に人をさばくようになることがあります。周りにいる信仰者の罪を犯す姿に怒り、神を信じようとしない人の態度に憤り、さばきのことばを口にしてしまうことがあります。その背景には、「自分はあの人とは違う。あんな罪人ではない」と言う自分を義とする思いがあります。知らず知らずのうちに、「その様な人と自分とは違う所にいるのだ」と言う思いで、人を責めているのです。

イザヤには、周りの人をさばくと言う罪の自覚が欠けていました。神への奉仕には熱心であっても、自分もまた罪人の一人であり、日々罪を犯していると言う自覚に欠けていたのです。

神様は、ご自身の聖さをはっきりと示すことで、イザヤがその罪に気が付くよう導かれました。「ああ、自分は滅んでしまう。」私たちが、聖なる神の前に立たされた時、自分が誇っていたものは、何一つ誇れなくなります。

イザヤは、「私は唇の汚れた者」と言うことばで、それを示していました。「自分は彼らとは違う」と言う高慢な思いから、どれ程同胞を責め、さばいてきたことか。預言者として、自らを周りの人より一段上に置いて物を言ってきたことか。聖なる神の前に立つ時、そんな自分の存在全てが罪であり、滅びにふさわしいことに、イザヤは気がついたのです。

私たちクリスチャンは、自分が罪人であることを徹底的に知らなければなりません。そうでなければ、神様の前で自分が罪人以外の何者かになってしまいます。私が神学生として、教会奉仕に励んでいた時のことです。色々と教会の問題が見えてきて、権先生と言う宣教師に「あの人のここが問題だ」等と言う様になりました。すると、権先生は「山崎さん。あなたはまだ罪人と言う事が分かっていない。自分の罪が分からないから、人の罪を見て、責めてばかりいるのではないですか。もっと神様の前に出て、もっと罪人になりなさい。」そう言われたことが忘れられません。

さらに、イザヤは言いました。「私は唇の汚れた民の間に住んでいる。」イザヤは、これまで責め続けてきた同胞、神様の前に口先だけの礼拝をささげていた民の一人である自分を発見したのです。「私も同じ罪人、いや彼ら以上の罪人ではないか。」神様は、ご自身の聖さを示すことで、イザヤをこの告白に導いたのです。この瞬間、神様の側から救いの御手が伸ばされました。み使いセラフィムが祭壇に燃え盛っていた炭火を手に、イザヤのところに近づいて来たのです。


6:6、7「すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせて言った。「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」


神殿の祭壇の上で何千頭もの罪のためのいけにえがささげられ、血が流されたことによってできた贖いの炭火。それをみ使いは、イザヤの唇にあてたと言うのです。それと同時に、「あなたの罪は赦された。」と言う赦しの宣言が届きました。

イザヤは、これをどのような思いで聞いたでしょうか。罪人である自分、神様の前で滅びるしかないと感じた者が、同じ神様によって罪贖われた者、罪のない者とされたのです。霊的に死んでいたイザヤが生き返ったのです。ぺちゃんこにされたイザヤが、ただ神様の恵みによって立ち上がったのです。

すると、ここに驚くべき神様の声が聞こえてきました。それは、イザヤの過去を責める声ではありまさせんでした。南ユダの民に対する怒りの声でもありませんでした。聞こえてきたのは、神様が、なお愛してやまないご自身の民のところに、イザヤを遣わしたいと願っておられる声だったのです。

礼拝において心に留めるべきこと、三つめは私たちに対する神様の信頼、期待に心を留めることです。


6:8「私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」


私たちは一度失敗した人に、大切な仕事を任せようとは思わない。そんな世界に生きています。「赦したよ」と口にしても、「それじゃあ、この仕事をお願いしようか」と、さほど重要ではない仕事を頼んだりします。私たちは、一度失った信頼を取り戻すことは非常に難しい世界に生きているのです。

しかし、神様はそうではありません。神様はイザヤの罪を赦しただけではなく、神様にとって最も大切な仕事をイザヤに任せたのです。そして、今も神様は礼拝における恵みによって、私たちを赦し、立ち上がらせることができるのです。今も私たちに期待して、大切な仕事を任せてくださり、私たちをこの世界に遣わすお方なのです。

「ここに私がおります。私を遣わしてください。」このイザヤのことばは、決して自分に自信があってのものではないと思います。むしろ、滅びこそふさわしい者を愛し、新しくしてくださった神様の恵みに、「私の様な者でも良ければ、どうぞお使いください」と応える、感謝の応答だったことでしょう。

すると、イザヤの耳に聞こえてきたのは、イザヤを落胆させかねないメッセージでした。


6:9~11a「すると主は言われた。「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」

私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は言われた。…」


 このことばを素直に読むと、神様は、まるで人々が神様に立ち帰って癒され、救われることがないために、イザヤに「行け」と命じておられるように見えます。しかし、これは聖書独特の表現で、イザヤが民のところに出て行き、神様のことばを語る時、必ず人々はこれを聞かず、悟らず、神様に立ち返ろうとしないだろうと言う意味なのです。将来起こること、この場合で言えば、イザヤの活動の結果、人々が益々不信仰になることが確実であることを示す、表現方法でした。

 そうだとすれば、イザヤに託されたのは、労多くして喜びの少ない仕事、「一体何のための仕事ですか」と神様に問いたくなるような、理不尽な仕事ではないかと思います。私だったら、「何故そんなそんな仕事を私にさせるのですか」と聞いてしまいそうです。

 しかし、イザヤは「何故」とは問わず、「主よ、いつまでですか」と問いました。イザヤは、「私のような罪人が救われたのだ。同じ罪人である民を神様が救われないはずはない。」そう確信していたのでしょう。だから、「何故」ではなく、「主よ、いつまでですか。いつまでこの仕事を続ければ、あなたは私の罪を贖ってくださったように、あなたの民の罪を贖い、救ってくださるのですか。私はあなたの恵みに信頼します。」そんな思いを込めて、神様に問いかけたのではないかと考えられます。自分だけが救われればよいのではない。今も罪の中に生きる人々の救いのために、イザヤは神様に体当たりしたのです。その問いに答える神様のことばが、続きます。


 6:1113「私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は言われた。「町々が荒れ果てて住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる。【主】が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増えるまで。そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔。」


 町々は荒れ果て、国は見捨てられる。十分の一の人が残されるが、やがてそれも焼き尽くされる。余りにも酷い状況が、イザヤを待っていました。けれども、全てが焼き払われた後に切り株が残る。その切り株とは聖なるすえ。これは、来るべき救い主についての預言、キリスト預言です。

 この後,預言通り、神様から離れてゆく人が増え、国は悲惨な状態になります。周りの状況がどんどん悪くなってゆく中、イザヤは来るべきキリストの到来を信じ、神様から任された預言者の仕事を続けてゆくことになります。

 最後に、礼拝において心に留めるべきことを確認したいと思います。第一は、礼拝のみことばにおいて示された神様の性質や働きを良く心に留め、神様を礼拝することです。聖なる神なのか、恵みと赦しの神なのか。救いの神なのか、さばきの神なのか。礼拝すべき神様がどのようなお方であるかを心に留めながら、それにふさわしい態度とことば、賛美で礼拝したいと思うのです。

 第二は、神様が示された自分の罪についてよく考えること、そして罪の贖い恵みを受け取ることです。自分の罪について考えなければ、どう修正すればよいのかわかりません。罪の贖いの恵みを受け取らないと、正しい道を進む力が与えられないからです。第三は、神様に愛され、罪赦された者は、イザヤの様に礼拝の場から、人々に仕える尊い働きのためこの世に遣わされると言うことです。

 礼拝において、自分は神様をどのようなお方として礼拝するのか。神様が示してくれた自分の罪、修正点とは何か。礼拝において、神様から託されこの世で行う自分の仕事とは何か。これから一年間の礼拝を、この様な点を心に留めながら、私たちささげてゆきたいと思うのです。


2019年1月1日火曜日

元旦礼拝「神様に期待して」マタイ13:31~33


 明けましておめでとうございます。新たな年を、皆様とともに礼拝で迎えることが出来ますこと、心から嬉しく思います。これから始まる私たち一人一人の歩み、毎週の礼拝の歩み、四日市キリスト教会の歩み、日本長老教会の歩みが祝福されますよう皆で祈りたいと思います。


 新たな一年の歩みを始めるにあたり、イエス様の言葉から励ましを受けたいと思い、皆で一つの箇所を読みたいと思います。からし種とパン種の話。

 「小さなからし種を畑に蒔きました。やがて芽が出て、成長し、木になり、空の鳥が来て、巣を作りました。めでたし、めでたし。」子どもの絵本のような話。一体何だろうと思いますが、これが神の一人子が語られた話。もう一つも至極簡単。「一つまみのパン種を、小麦粉に混ぜたら、全体が膨らみました。めでたし、めでたし。」これも、童話のような話ですが、イエス様が語られたたとえ話。

 「種を蒔いたら、大きな木になった」。「小麦粉にパン種で、膨らんだ」。当たり前のこと、当然のこと。しかし、そこに不思議を見るイエス様の目。小さな小さな種が、巨大な木となることの不思議。僅かなパン種が、小麦粉全体に影響を与える不思議。言われてみれば、確かに凄い。当たり前、当然のことと考える前に、神様が造られた世界の面白さ、不思議さを確認したいところ。種を蒔けば芽を出す、混ぜれば膨らみだす。素朴、日常的、しかしそこにある正直な不思議さ。

 イエス様も田舎町ナザレで、父ヨセフの仕事を手伝い、母マリアの台所の手伝いをされたでしょう。畑で種を蒔くイエス、台所でパンを捏ねるイエス。世界を造られた方、神である方が人となることの不思議さを、このようなたとえ話の中にも感じられますが、人間味あふれるイエス様というのも魅力的です。

 また当時の一般的な感覚からすれば、一方が畑に種を蒔くという男の仕事に対して、一方が台所でパンを捏ねるという女性の仕事を題材とする。どこにでもある話、無造作な話のようでいて、実は行き届いた配慮ある話と見ることも出来ます。


 「種を蒔いたら、大きな木になった」。「小麦粉にパン種で、膨らんだ」。日常的、どこにでもあること。当たり前と言えば当たり前、不思議と言えば不思議。小さな絵本のようなこの話は、しかし、その物語ることが「天の御国」の秘密であり、何とも世界大のスケールとなっているのです。

 マタイ13章31節~33節

イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。『天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。』イエスはまた、別のたとえを彼らに話された。『天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます。』


 マタイ13章と言えば、「天の御国」を様々なものでたとえるイエス様の説教が記録される章。種まきのたとえ、毒麦のたとえ、畑に隠された宝のたとえ、良い真珠を探している商人のたとえ、海に投げ入れられる網のたとえ。これらのたとえとともに語られるのが、からし種のたとえ、パン種のたとえとなり、今日はこの二つのたとえに焦点を当てます。

 この章で繰り返し語られる「天の御国」とは何か。極々簡単にまとめると、「神様の御心に沿った状態」、「聖書に示されたあるべき状態」のこと。アダムとエバが罪をおかして以来、堕落した世界。罪にまみれた人間。人間が作り出した社会も罪にまみれたもの。人も、この世界が、「神様の御心に沿った状態」となるというのが、聖書が教える福音でした。

 人も世界も良い状態となる。天の御国の力強さは、何にたとえられるのか。それは、一粒のからし種、一つまみのパン種のよう。小さく僅かに見えても、みるみるうちに伸び、グングンと膨れ上がり、ついには人々を覆い、世界を満たすという、何とも豪快なたとえ、豪快な預言となっているのです。小さくて大きなたとえ話。


 それでは、二つのうち一つ目のたとえから見ていきます。

 マタイ13章31節~32節

イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。『天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。』


 皆さまはからし種を見たことがあるでしょうか。「種」にも、色々な大きさがありますが、からし種はともかく小さい。からし種を知らない人に、一粒のからし種を見せて、これを何だと思うかと聞いても、種とは思えない程小さい。当時のユダヤの文化で、小さいものの代名詞がからし種でした。風が吹けば飛び、消えてしまう。あるかないかの存在。その小さなものの代表であるからし種が、巨木となる。この、小から大ということがこのたとえの中心です。

小から大がたとえの中心。しかし、木が成長し巨木となり、枝に鳥が来るというのは、旧約聖書に記された一つの場面を思い起こさせるものでもあります。バビロン捕囚の際、当時圧倒的な力でその地方を席巻したネブカドネツァル王が見た夢が、木が成長し鳥が来るというものでした。

 ダニエル書4章10節~12節

私の寝床で幻が頭に浮かんだ。私が眺めていると、見よ、地の中央に木があった。それは非常に高かった。その木は生長して強くなり、その高さは天に届いて、地の果てのどこからもそれが見えた。葉は美しく、実も豊かで、その木にはすべてのものの食べ物があった。その木陰では野の獣が憩い、その枝には空の鳥が住み、すべての肉なるものはそれによって養われた。


 この夢がどのような意味があるのか。(夢は、その木を切り倒すというものですが)解き明かすように言われたのが、ダニエル、別名ベルテシャツァルで、その木とはネブカドネツァル王であると言います。

巨大な木、枝には鳥が来る。それが、巨大な権力をもってその地方を治めた王自身を指す。この旧約聖書のエピソードを下敷きにして、今日のたとえを聞きますと、小から大というだけでなく、世界を席巻する。世界大の統治という意味合いも見出すことになります。

 イエス様がこのたとえを語られたのは、地中海世界、ローマ世界の片隅でのこと。キリストの弟子と言えば、無学で名もない者たち。田舎漁師やら取税人やらの集まり。この小さな小さな集まりが、やがて世界を席巻する教会となるなど、思いもつかない。想像するのも難しい。しかし事実、今や極東の国、日本の私たちのところまで、天の御国は広がってきた。約二千年前、イエス様の言葉を聞いた者たちの中で、今の世界を想像出来たものが一人でもいたかと思います。

畑や台所を題材とした、小さな絵本のような話題の中に、世界大の預言が込められていて、それが実際に実現に向かっているということに圧倒されます。この童話風のたとえ話の中に、確実に成就する天の御国の姿を見据えたイエス様の眼光の鋭さ。


 この一つ目のたとえが、小から大。全世界への広がりとすれば、二つ目のたとえは変化、変質に重点があります。

 マタイ13章33節

イエスはまた、別のたとえを彼らに話された。『天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます。』


 パン種は、聖書の中で、繰り返したとえに用いられているもの。ユダヤはパンを主食とする文化のため、馴染み深い題材でした。

ところで、当時パン種はどのように保存されたでしょうか。パンを焼く前に、練った小麦粉の一部を取っておき、次に新しくパンを焼く際に、そのとっておいた古い小麦粉の塊を混ぜる。このように、パン種を古いものから新しいものへ移しながら、保存したのです。このわずかに入れられた古い練り粉のかたまりが、新しいパンの塊全体を膨らませる。僅かでも、全体に影響を与える。全体を変えてしまう力があるというのが、このたとえの中心です。

このようにパン種は、古いものを新しいものに入れて使うため、古くなりすぎたパン種の入った塊が、新しいパンに入りますと、全体をダメにしてしまうことがある。悪い状態で、その影響力が発揮されると、全体にダメージがある。そのため、古いパン種は、悪いもの、悪い影響力を示すものでもあります。そしてどちらかと言えば、パン種は悪いものをたとえる際に用いられることの方が多いのです。


 今日の箇所で、天の御国のたとえとしてパン種を用いたイエス様が、別な箇所では、「偽善」にたとえていました。

 ルカ12章1節

そうしているうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに話し始められた。『パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい。』


 パウロも、パン種を悪いもののたとえに用いて、取り除くようにと語っている箇所があります。

 Ⅰコリント5章6節~8節

あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。


 このように聖書全体からすると、パン種は悪いイメージがありますが、しかしここでは、変える力、影響力に焦点を当てて、語られます。

 ところでイエス様が話されたたとえは、三サトンの小麦粉の中にパン種を入れる話となっています。脚注付きの聖書では、一サトンが13リットルと記されています。つまり、三サトンで、約40リットル、約20キログラムの小麦粉。現代の日本で、これだけの量がある場合、何食分のパンが焼けるのか、分かる人に聞いてみたいところですが、ある学者は150人分のパンの材料と換算しています。凄い量。

 イエス様が何故、三サトンと言われたのか分かりませんが(当時、三サトンが何かの目安になっていたのかもしれませんが)、言いたいことは、僅かなパン種でも、大きな塊に影響力があるということ。パン種には、変える力、変質する力がある。そして、その変える力が天の御国を示しているのです。

キリストを通してもたらされる天の御国は、人を、世界を変える力がある。神様から離れ、自分中心に生きる者。正しく生きたいと願っても生きられない。正しく生きたと思っても、周りも自分も傷つけてしまう。変わりたいと願っても、変わることが出来ない。罪の悲惨に囚われている者を、変えることが出来る。変える力がある。変わりえないと思っていた人、変わりえないと思っていた世界が変わるとの宣言でした。


 以上、からし種のたとえ、パン種のたとえでした。最後に、今日のイエス様の言葉を覚えて生きるとはどのようなことか確認して終わりたいと思います。

 天の御国にたとえられた、からし種、パン種。これは、イエス様のなされた御業、イエス様の語られた御教えを表すもの。あるいは、イエス様の御業、御教えを宣べ伝える者たちと言えるでしょう。

 イエス様がこのたとえを語られた当時、イエス様の御業を知る者、イエス様の御教えを理解する者はごく僅か。しかし今や、その御業によって造り変えられる者が世界中でおこされ、その御教えを宣べ伝える者たちが世界中にいます。いや他でもない、キリストを信じる私たちが、キリストの御業によって造り変えられ、その御教えを宣べ伝える者なのです。

私たちの生きているこの世界は、罪によって悲惨な状態になりましたが、イエス・キリストがもたらした天の御国への変化によって造り変えられている。その途上にある。全世界にいる神の民は、イエス・キリストから始まりました天の御国の命と力をいただいて、天の御国が完成へ向けて、取り組むのです。


 確かに約二千年前、イエス様からこのたとえを聞いた者たちが想像することは出来ないほど、世界中に天の御国は広がってきた。小さな種が巨木となる。僅かなパン種が世界中に影響をもたらしてきた。それは分かります。

しかし同時に、日本に住む私たちは、なかなかそうは思えない側面もあります。日本全体で見ますと、クリスチャン人口は減少傾向にあり、教会数も増えない。一年の間、受洗者が一人もいない教会も多数ある。精いっぱい伝道活動をしていても、なかなか実りが見えない。前進よりも後退、成長よりも衰退と感じられる。

教会というだけでなく、自分自身も同様です。キリストによって造り変えられる。しかし、同じ罪を繰り返し、同じ失敗を繰り返す。大切な人を愛したいと願いながら、傷つけてしまう。職場、学び舎、家庭、地域、様々なところで人間関係が壊れていく。果たして本当に私は変えられているのか、悩みます。


 新たな一年が始まります。私たちの目の前にある状況、私たち自身の状態に焦点を当てると、多くの不安や恐れ、心配を抱くことになります。そうではなく、イエス様の言葉に注目したいと思います。天の御国は、からし種のよう。天の御国は、パン種のよう。私が頑張って、世界を良い状態にするのではない。私が努力して、自分を良い状態にするのでもない。イエス様の御業が、イエス様の御教えが、世界と私たちに対して、からし種のような力、パン種のような力を持っている。神様が、世界を良くして下さる。神様が、私を変えて下さる。この神様に期待して、これからの一年の歩みを始めていきたいと思います。

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...