毎年8月になると、新聞やテレビが先の戦争について、様々な記事を載せ、番組を放送します。それを読み、見ることで、私たちも戦争の悲惨を思い、平和への願いを新たにすることができます。しかし、世界の現実は平和とは程遠いことを感じます。武器をもって行う戦いこそないものの、日本でも政党と政党、経営者と労働者、地域の隣人関係、家庭における夫と妻、親と子、兄弟姉妹に至るまで、対立争いは後を絶ちません。
何故でしょうか。人はみな平和を願うのに、どうして対立するのか。各々が平和のために努力しているのに、なぜ争いはなくならないのか。一言で争い、対立と言っても、状況は様々で、簡単な解決方法などないことは承知の上ですが、聖書の視点から見れば、罪の問題について真剣に考えること、神様に信頼し、従うことがなければ、根本的な解決はないと言えるでしょう。
礼拝において読み進めているコリント人への手紙第一も、今日は第6章に入ります。紀元1世紀半ば。この手紙の著者パウロがギリシャ、コリントの町に建てた教会は、様々な問題を抱えていました。仲間割れ、性的不道徳、偶像礼拝、富める者の高慢、礼拝の乱れなど。これが本当にキリスト教会と言えるのかと思われる程の有様、混乱ぶりだったのです。
カルバンはコリントの町について、こう説明しています。「コリントに不品行がはびこっていたことは、歴史が証明している。コリントは経済的に豊かな町であった。そこには有名な市場が立ち、各国の商人が船を寄せた。その結果、財宝はあふれ、これが不品行を生むもとともなった。その上、もともと不品行に傾きやすい性質のコリントの人々は、他の多くの腐敗のために、いっそう拍車をかけられ、さらに不品行と高慢にはまり込んでいった。」まるで、現代のどこかの町の様子を描いたようなことばではないでしょうか。私たちとしても、他人事とは思えません。
神様が私たちを罪から救い、教会に集められたのは、教会が置かれたその地域で、人間本来の幸いな生き方を示すため、良い影響を与えるためでした。それなのに、コリント教会はこの世の悪しき生き方や風習、習慣を教会に持ち込み、立てるべき証しを立ててはいなかったのです。
しかし、この様な教会をも神の教会と認めるパウロは、忍耐を尽くして、一つ一つ問題を取り上げ、適切な勧め、命令を出してきました。第1章から第4章では、仲間割れの問題を取りあげ、教会の一致を説きました。先回の第5章では、性的不道徳に陥った兄弟が罪を悔い改めるため、厳正に対応することを命じたのです。そして、今日の6章は、訴訟の問題、裁判沙汰です。
6:1「あなたがたのうちには、仲間と争いを起こしたら、それを聖徒たちに訴えずに、あえて、正しくない人たちに訴える人がいるのですか。」
この場合、「仲間と争いを起こしたら」の仲間争いとは、後に出てくる不正、だまし取る、つまり詐欺のことです。先の父の妻と同棲すると言う不品行にも驚きますが、教会の中で詐欺行為が行われたと言うことにも驚かされます。
しかも、不品行を行った者に対しては、罪の悔い改めに導くための戒規を下すことなく、教会内にとどめておいたのに、些細な財産問題となると大騒ぎをして、町の裁判所に訴える。教会として熱心に取り組むべきことには無関心、不熱心でありながら、自分の問題それも金銭の問題となると、少しの不利益も被るまいと、大騒ぎする。教会として,クリスチャンとして、本末転倒したコリント人の姿です。
そして、パウロが、より深く心を痛めたのは、詐欺問題に対する人々の対応の仕方でした。彼らは「それを聖徒たちに訴えずに、正しくない人たちに訴えた」らしいのです。
正しくない人たちと言うのは、イエス・キリストを信じ、神様に義と認められた信仰者に対して、神様に義と認められていない世間の人、この場合はこの世の裁判官をさしています。この世の裁判官が道徳的に正しくないと言うのではありません。神様と正しい関係にないと言う意味で「正しくない人」と言われています。それなのに、どうもコリントの人々は、教会の中で起こった金銭的トラブルを教会内で解決しようとせず、この世の裁判官に、そのまま訴え争っていたらしいのです。
もちろん、裁判制度そのものは神様が建てられたものです。聖書は、この世に存在している権威は神によるもの。神がこの世の秩序を守るために定めた制度と教えていました。パウロ自身、ユダヤ人から訴えられ、殺されそうになった時、皇帝カイザルに上訴し、無実を証明しようとしました。
とはいえ、事が兄弟同士の個人的問題であったとしたら、何よりもまず、これを教会内で解決すべく力を尽くさなければならないとも考えていたのです。
それは、教会内のトラブルを外に出したら恥ずかしい、外聞が悪いというようなことではなく、教会は教会に与えられた神の教えに基づいて、問題の解決にあたるべきであったからです。ところが、コリントの人々は、その様な自覚を持たず、問題をすぐさま町の裁判所に持ち込み、互に争っていました。先には、不道徳の罪に陥った兄弟の問題は放っておくかと思えば、今度は、個人的で、小さな問題を外部に持ち出すと言う。いったい、どれだけキリスト者としての自覚があるのか。そうパウロは嘆き、彼らに自覚を促します。
6:2~5「聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでもないではありませんか。それなのに、日常の事柄で争いが起こると、教会の中で軽んじられている人たちを裁判官に選ぶのですか。私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。あなたがたの中には、兄弟の間を仲裁することができる賢い人が、一人もいないのですか。」
「聖徒たちが世界をさばくようになること」「私たちは御使いたちをさばくようになること」を、あなた方は知らないのですか。そうパウロはコリント人に語っていますが、皆様はこのことを知っていたでしょうか。これをどれぐらい自覚して、生活しているでしょうか。
世界が創造された最初の時、神様は人間にこの世界の造られたものを支配し、管理すると言う使命を与えられました。しかし、人間は神様に背いたため、正しく支配し、管理することができなくなりました。人間による自己中心的な管理、支配のために、この世界は様々な問題を抱えるようになったのです。
けれども、イエス・キリストを信じる者に、神様は正しく支配し、管理する能力を回復してくださいました。そして、キリストが再度この世界に戻られ、神の国が完成する時、私たちキリストを信じる者に与えられた、その能力は完全に回復することを聖書は教えています。パウロが「聖徒たちが世界をさばくようになる」とか「私たちは御使いたちをさばくようになる」と言っているのは、この来るべき時のことを示しているのです。
尤も、さばくとか支配する、管理すると言っても、それはやがて私たちがこの世の権力者や裁判官の様に振舞うことを意味していません。この世の支配者は軍事力や経済力など権力をもって支配することが許されています。しかし、その為に権力を悪用する支配者の圧政、暴虐に、しばしば民衆は苦しめられてきました。私たちの中にも、力で人を思い通り支配したいと言う罪の思いは、しっかりと根付いています。ですから、誰が一番偉いのかと争いを繰り返す弟子たちのため、イエス様が、正しい支配について教えられた箇所があります。
マルコ10:42~45「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
神の国の民は、皆に仕える者となれ、皆のしもべとなれ。与えられた力をもって人を自分の思い通り支配するのではなく、隣人の幸いのため与えられた力を活用する者となれ。特に力なき者、小さき者に仕えよ。これが、私たちが聞き取るべきメッセージではないかと思います。
そのような恵みを受けているにもかかわらず、あなたがたは些細な問題さえ治めることができず、これを外に出して、神を知らない人の手に委ねようとしている。何と情けないことか。もっとしっかりと、神の国の民として受けた恵みについて考え、自覚せよ。そんな使徒の声を、私たちここに聞くことができると思います。私たち自身も、世界を、み使いを治める者となると言うこの恵みを、どれだけ自覚して行動しているかを問われるところです。
さらにパウロは、知恵を誇るコリントの人々の心を抉ることばを、突き刺してゆきます。
6:5~7「私は、あなたがたを恥じ入らせるために、こう言っているのです。あなたがたの中には、兄弟の間を仲裁することができる賢い人が、一人もいないのですか。それで兄弟が兄弟を告訴し、しかも、それを信者でない人たちの前でするのですか。そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。」
「あなたがたの中には、兄弟の間を仲裁することができる賢い人が、一人もいないのですか。」これは知恵を誇るコリントの人々に対する、痛烈な皮肉です。また、「敗北」とは、お互いの権利や利益に拘る訴訟沙汰が、世間の顰蹙を買うばかりか、教会の評判を貶め、神の栄光に泥を塗ることに気がつかないのですか、と言う叱責のことばでしょう。
さらに、「どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。」ということばは、金銭問題ともなると眼の色を変え、自分の権利、自分の立場を譲ろうとはしないコリントの人々への戒めです。兄弟愛を忘れ、権利や利益ばかり主張するコリントの人々が、本当に和解するためには、自分の権利を譲ること、忍耐することも必要との勧めでした。
もとより、こうした配慮を費やした上で裁判に進む場合もあるでしょう。しかし、先ずは個人的に、また教会として十分な努力をすることが原則であることは変わらないと思います。
しかし、それでも、まだパウロはコリント教会のことが心配だったのでしょう。当時コリントの町に蔓延っていた不正、悪徳を数え上げ、それらに染まって神の国を相続すると言う恵み、祝福を失うことがないように、注意しました。
6:8~11「それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」
もう一度カルバンのことばを聞きたいと思います。「人間には、自分の罪を実際よりも軽いものと思い、神を侮ることに慣れてしまう性質がある。私たちを罪の中にとどめようとするこの様な甘やかし程危険な毒はない。神を畏れることを忘れた人は、神の審判も冗談ごとに変えてしまう。」パウロが、本当に心配していたのは、罪を実際よりも軽いものとみなし、神を侮ることに慣れてしまう風調がコリント教会の中に広がってしまうことではなかったかと思われます。
だからこそでしょう。パウロは再度イエス・キリストを信じた者が受け取る恵みについて、確認しています。「…しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によってあなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」
ここには、私たちがイエス・キリストを信じた時、三つの恵みを受け取ることが教えられています。即ち、神様は私たちの罪を洗い、赦してくださいました。私たちを聖なる者とし、罪あるままで義と認めてくださいました。この三つの恵みを事実受け取ったこと、この恵みのゆえに神の国を相続できることを確信できる時、私たちの生き方は変えられてゆくのです。
さて、今日の説教のテーマは平和です。本来なら、平和な関係とはどういうものなのかを証しすべき教会が内輪で争い、教会として証しを建てることができない状態にあった。これがコリント教会の実態でした。しかし、その様な教会に対するパウロの戒めから、私たちも教えられることがあると思うのです。
それは、平和とは神様の恵みであると同時に、私たちが造るものであること、私たちは平和を造る者として召されていることです。コリントの人々のように、私たちも兄弟姉妹や社会の隣人と対立することがあるかもしれません。あるいは、両者の間に入り、仲裁の役割を果たす立場に立つこともあるでしょう。
いずれの場合でも、私たちは平和を造る者として生かされていることを忘れてはならないと思います。自分の中にある、思い通りに人を動かそうとする思い、自分の権利や利益を優先する思いを捨ててかからねばなりません。自分に与えられた権利や力を、相手の幸いのために用い、相手に仕えると言う思いに立たなければ平和を造ることも、和解に導くことも難しいでしょう。
しかし、イエス・キリストは、私たちにとって本当に難しいことを、私たちのために成し遂げてくださいました。神の御子としての権利を捨て、持てる力のすべてを使って私たちに仕え、罪の贖いを成し遂げ、神様との平和な関係に入れてくださったのです。
このキリストの恵みに感謝し、心動かされながら、私たちは平和を造る者としての歩み、続けてゆきたいと思います。今日の聖句です。
コロサイ 3:15 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。」