もうそろそろ夏になりますよね。子供の頃の夏の思い出が忘れられないんです。学校の休みになって、一日中自然で友達と遊んだり、祭で花火を観たり、家族と一緒にキャンプしに行ったりして、どれも忘れられない思い出です。しかし、夏の中では、何が嫌いだと言って蚊ぐらい嫌いなものはありません。信じられないほど素晴らしい催しでも、蚊さえいれば悲惨になり兼ねません。
一世紀の使徒パウロの周りにも、福音を台無しにする虫もいました。この虫は蚊ではなく、偽教師でした。パウロの宣教活動の最初から最後まで、その偽教師の虫は邪魔してしまいました。彼らは、パウロ自身も、パウロの教えをも攻撃して、パウロの働きをやめさせようと努力しました。このようにして、信じられないほど素晴らしい福音の真理を妨げたのが偽教師達でした。
現在も、聖書の真理を攻撃する人たちがいます。彼らの教えを信じて、その行動を真似する危険性は私たちの教会にもあります。正直に言えば、私たち皆、福音を信じなくなるきらいがありますので、そうならないため、に使徒パウロはこのガラテヤ人への手紙を書いたのです。
この誘惑と戦うために、今日の聖句ガラテヤ2章の冒頭で、パウロはエルサレムへの旅について語ります。2018年の私たちは、この話は自分の人生に全く関係がないと考える傾向があると思いますが、そうではありません。今朝、パウロの言葉をよく聴いていれば、神様の愛、神様の恵をよりよく理解できるでしょう。この知恵を得るために三つのことをみて行きたいと思います。第一にパウロの仲間、第二にパウロのメッセージ、第三にパウロの宣教です。
みなさんは覚えているかも知れませんが、パウロはガラテヤという地方でいくつの教会を建ててから、別のところに新しい教会を建てに行きました。パウロがガラテヤにいない間に、偽教師がそこの諸教会に忍び込んで、教会員を騙すためにパウロを責めていました。訴えたのは、パウロは本当の使徒ではない、キリスト教の本部と違う教理を教えているということでした。なので、パウロは自分自身の教えを守るために、自分で建てた教会の信徒の信仰を守るために、このガラテヤ人への手紙を送りました。1章、2章で、パウロが焦点をあてているのは、使徒である権利を裏付けるために、自分の働きの召しの背景を説明することです。
そうすると、一節にはエルサレムに上ることについて記しています。キリスト教が始まったころ、イエス様の弟子、教会の使徒達の本部はエルサレムでした。今回はバルナバと一緒に行って、テトスも連れて行きました。バルナバはユダヤ人だったんですが、テトスの方はギリシア人つまり異邦人でした。パウロにとっては、これは重大な戦略でした。
偽教師達によると、神の民になる前にユダヤ教の律法に従わなければなりませんでした。例えば、割礼を受けないと救われません。でも、パウロは、救いは信仰のみによると教えていたのです。ユダヤ人もギリシア人も行いに関わらず、「神は罪人を救う」というのは本当の福音だと宣伝しました。これは、福音の自由にかかわることでした。
理解しないといけないのは、パウロは一体なぜ、再びエルサレムに行ったのかということです。2節によると、神様から啓示を受けました。もう一つの理由は、「私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました」。つまり、パウロはいつも教会員のことを大切にして、自分の安全より教会員を守ろうとしていたのです。もし、ガラテヤの教会員が偽教師の影響で他の福音に移っていけば、パウロの働きは無駄になるということでした。パウロの関心は自分の評判というよりも教会員の信仰生活でした。パウロからすると偽教師の方が間違っていると示さずにおかないゆえに、キリスト教の本部のリーダー達と相談しに行きました。
パウロを批判する人と同じ考え方の人は、現代にも少なくはないと思います。聖書によりますと、救いは神の贈物です。救い「が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(ガラテヤ2章21節)。それなのに、いくつかの団体は現代でも、自分の行いで救いを得られると信じています。モルモン教や、エホバの証人などがこういう団体なんです。パウロによると、全く違う宗教になってしまいます。パウロのようにこの考え方を避けて、神の恵みによる自由の福音を守らなければなりません。
そうするため、一つの方法は信仰箇条を確認することです。何を信じているかはっきりと説明するために、私たちの教会、日本長老教会は世界中の長老教会と一緒に十七世紀に書かれたウエストミンスター信仰告白というものがあります。もう一つは、三世紀ごろにまとめられた使徒信条です。隔月この礼拝の中で一緒に読んでいます。なぜかというと、私たちは何を信じてるか、何を告白するかをお互いに思い出すことができるからです。そうすると、偽の福音は接するとすぐ分かると願っています。自分は何を信じているかを説明するため、広く世界中の教会に承認されている基準があればものすごく役に立つでしょう。パウロにとっては、エルサレムにいる使徒達はこういう基準でした。もし、彼らがパウロの教えを承認すれば、偽教師の訴えの方は無駄になります。
となると、エルサレムへの旅の結果は何なのでしょうか。はっきりいうと、「テトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を強いられませんでした」(3節)。その偽教師の標語は「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」ということでした(使徒15章11節)。これにより、エルサレムのリーダーたちがテトスは割礼を受けなくても良いと判断したことはすごく大事なポイントでした。彼らは、パウロを支持しました。
割礼というのは、日本の文化にはないことなので、割礼についてちょっと説明してみたいと思います。割礼はユダヤ教でどのような意味だったのか、割礼は何かを。
旧約聖書の時代、神様にエジプトの奴隷の家からユダヤ人が救われました。神様はこう言いました「わたしはあなたがたを取って、わたしの民とし、わたしはあなたがたの神になる」(出エジプト6章7節)。神の民として、どういう生き方が相応しいかを説明するために神様は律法を民に与えたんです。律法というのは救いを得るための条件ではないんです、旧約聖書の時代にも、新約聖書の時代にも、現代にも。
この律法の中の一つは、儀式律法でした。儀式律法というのは、他の偶像礼拝をする部族との間に境をはっきり示すためでした。割礼というのは、儀式律法の一つで、契約の印として、ユダヤ人の男性の性器の皮を切り取ることでした。しかし、この儀式律法はキリストによる罪の贖いを示す型、しるしだったのです(ヘブル人10章)。なので、神の民はイエス様が登場してから、救いと聖さは信仰によるものなので、儀式律法にはもう従わなくても良いのです。
ということで、エルサレムにある教会の本部の支配者達は、テトスに割礼を強制しませんでした。パウロの教え、パウロの福音は間違っていないと認めたのです。
パウロは福音の真理が保たれるため、わざとユダヤ人と異邦人の仲間を連れていったんですが、そのメッセージはなんだったのでしょうか。4節から6節までをみれば、簡単にいうと、パウロのメッセージはキリスト・イエスにあって自由があると言うことです。この自由は、救われるために律法に従う必要がないという意味です。エルサレムにいるほかの使徒たちも、このメッセージに対して、何も付け加えませんでした。私たちの中には、誰一人完全に律法に従うことはできないので、このメッセージは非常にいい知らせですけど、不思議なことに攻撃されるのです。もっと不思議なことに、私たちの方も攻撃するんです。
なんらかの理由で、私たちクリスチャンは、自分のルールを自分で作ることが好きです。プライドがありますので、自分で自分を正しくすることができると、声を出して言わないかもしれないけど、心の中で言う恐れがあります。誰かに割礼を受けさせようとすることはしないけれども、パウロの敵の偽教師の真似をしないわけではないでしょう。これは危ないです。
私の人生から、一つの例をあげていきたいと思います。言うのが本当に恥ずかしいですけど、先週家に帰ってきた時に、妻は食事の準備はまだできてない状態でした。疲れていて、お腹が減っていたので、心の中でいらいらを感じました。怒鳴ることはしなかったんですが、私がやったのはもっと冷酷でした。「あ、晩御飯はまだできてないの?」と何気なく言いました。でも、その単純な言葉を通して「君の努力は足りないよ」というメッセージを伝えてしまいました。
どちらかというと、このアプローチは律法主義で、絶対罪なのです。ダメなのは妻ではなく、私の方でした。私は手伝おうとしたんでしょうか?憐れみを持って、忍耐深く接しようとしたんでしょうか?いや。恵みを示す代わりに、自分のルールで妻を裁くだけでした。つまり、その瞬間に自分がしてほしいことはしていなければ、私は妻を愛していないというメッセージを伝えてしまいました。
しかし、私たちに対してイエス様はこんな態度はとりません。イエス様の愛は無条件の愛なので、私たちの行いは関係がありません。他人に向かって、相手に対しての愛が行いを土台にしていれば、人間関係が悪くなります。こういう態度を悔い改めなければなりません。
自分に向かっても、同じ危険があると思います。良い行いを頑張っていれば、プライドが高くなり、一方、罪との戦いで負けていればがっかりする傾向があります。例えば、ますます良い行いをすれば、ますます神様に愛される。男性はたくさんお金を稼いだら、価値があることを証明できると思う。ちゃんと毎週礼拝に出席すると神様は喜ぶ。子供は成績がいいといいママになる。その一方で、いい仕事は見つけないと自分の人生は無駄だ。経済的に自立していないと、自分には価値がない。有名な学校へ進学できないと無駄な存在だと思う。
それに伴って、どちらの谷に陥っても、本当の福音の意味は忘れたということになります。神様が愛してくださったのは、私たちの行いではなく、イエス様の完全な行いだからです。ルールを作ったり、他人や自分にルールを強制したりすると、神様の恵による救いを見失います。パウロのようにこの偽教師の考え方に譲歩したり屈服したりしないようにしましょう(5節)。キリストの福音の真理によると、私たちは律法の要求から解放されました。パウロの自由なメッセージをしっかり握りましょう。
続きまして、パウロの仲間も、パウロのメッセージも見たんですけれども、パウロの宣教はなんだったのでしょうか。7節から10節を見ますと、異邦人への福音を伝えることがパウロの宣教だということが明らになります。パウロは自分自身も使徒なので、他のエルサレムにいる使徒達はパウロに命令するよりも、パウロの召しを承認しただけだったのです。「割礼を受けていない者への福音を委ねられていることを理解してくれました」とパウロが7節に記しています。伝統的にいうと、異邦人は割礼を受けていなかったので、「割礼を受けない者」というのは異邦人だという慣用句でした。
神様はアブラハムの時代から、ユダヤ人を通して全世界を祝福するという約束をしたんですが、これがどのようにして成就するか、イエスが来るまで誰も理解できませんでした。しかし、バプテスマのヨハネによると、イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」でした(ヨハネ1章29節)。イエスはユダヤ人で、イエスの死と蘇りを通して、神様は全世界への救いの約束を成就したのです。 その上に、イエスは旧約聖書の儀式律法も完全に成就したゆえに、その時から「キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです」(ガラテヤ5章6節)。
エルサレムにいる教会の一番トップの3人、ヤコブ、ペテロとヨハネが、パウロによる異邦人への宣教を認めました。ペテロがユダヤ人の中に教会を建てることと全く同じように、パウロは異邦人のところにいって教会を建てるために遣わされました。なので、ユダヤ人も、異邦人も、全世界の人々が、教会の伝道の相手なのです。
この二つのグループの間で、一致が重要な目標でした。なので、エルサレムの使徒たちは10節に「貧しい人たちのことを心に留めるように」とパウロに勧めました。もちろん、貧しい人の配慮は大事な活動ですが、この勧めには、もう一つの理由があります。当時、異邦人の教会に比べると、エルサレムの諸教会は貧乏だったのです。すなわち、異邦人への使徒パウロは、貧しいユダヤ人の教会を顧みることは、二つのグループの教会をお互いに一致にする機会になると考えました。この活動もパウロの宣教の一つでした。
まとめとして、パウロの仲間、パウロのメッセージ、パウロの宣教を見れば、福音の真理が保たれることが明らかです。どのように適用すべきでしょうか。特に二つの視野で見られると思います。
一つ目は、私たちの模範としてのパウロです。私たちも、パウロのように努力して福音の真理を守りますように。偽教師の教えに対して戦ったり、神様に救われるため、律法に従う必要がないことを忘れないことです。他人に対して、自分に対してもルールを強制しないことです。福音による自由を守ること。教会にはユダヤ人もギリシヤ人もなく、キリスト・イエスにあって一つだから、世界中の各教会を支援すること。教会の一致が守られますように。
二つ目の適用は、この話を聞いて、あらゆる出来事は現在の私たちに対して、神様が愛を保ったという証拠です。神様が四日市キリスト教会のみなさんを愛してくださったので、今まで福音の真理が保たれてきました。使徒たちの働きを通して、福音の自由と真理は汚れませんでした。パウロの戦いを通して、現在にも「神は罪人を救う」という福音は私たちの町まで伝わってきました。御言葉を通して、神様の無条件な愛、深い恵について学べます。私たちは異邦人でも、自分の部族を問わず、心の中に罪があっても、神様の愛を確信できます。
神様は私たちを愛してくださったので、私たち神の民のためにこの福音が保たれてきました。私たちも、この出来事を覚えて、感謝をもって、お互いに福音の自由を現して、愛し合いましょう。
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