皆様は、知恵自慢の山姥が登場する昔話をご存知でしょうか。ある峠を住まいとする山姥は、そこを通る旅人の心を読むことができました。「お前は、どこどこに行くつもりだろう」「背中の荷物には~が入っているだろう」「お前は、私のことが怖くて、早く逃げたいと思っているだろう」。旅人の思いをぴたりと言い当てる山姥は、人々から怖がられ、山姥は自分の知恵が自慢の種だったのです。しかし、ある時山姥に驚いた旅人が思わず後ろに下がった途端、木の端っこを踏むと、その木が跳ねて山姥の頭を直撃。あえなく、山姥は死んでしまいます。人の心を読む知恵者山姥も、我が身に降りかかる災いについては、知ることはできなかったと言うお話です。知恵をもって自ら誇り、高ぶる者は、いつかその身に災いを招く。人間は、昔からこうしたお話を残し伝えて高慢を戒めてきました。
今、私たちはコリント人への手紙第一を読み進めています。この手紙は、紀元50年頃使徒パウロが書かれたもの。その頃、コリント教会は仲間割れで揺れていました。同じ神を信じ、同じ教会に属していると言うのに、パウロ派、アポロ派、ペテロ派と、各々が好む指導者の名をつけ、どの指導者も気に入らない者はキリスト派を名乗って分かれ、争っていたのです。
そもそも、コリント教会は、遡ること6年前。始めてヨーロッパの地に足を踏み入れたパウロが、苦労して生み出した教会です。それが、分裂寸前の状態にあると言う。悲しむべき知らせを受け取ったパウロが、問題解決のため早速書き送った手紙。それが、コリント第一の手紙でした。使徒は様々な問題に心を痛めながらも、これを整理し、まず要となる仲間割れの問題から扱おう、と考えたのでしょう。1章から4章まで、この手紙の前半は、教会内の対立を戒め、一致を勧めることがテーマとなっています。
コリント教会の仲間割れの原因は何だったのか。どうすれば、教会は一致できるのか。この点を心にとめながら、今日の箇所、読み進めてゆきたいと思います。
3:10、11「私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」
前のところで、パウロは教会のことを神の畑に例えましたが、ここでは神の建物と呼んでいます。
畑から建物へ。教会に仕えるパウロも、農夫から建築家へと、その役割を変えてゆきます。
畑は、農夫が手入れする作物が生き生きと成長するように、教会が成長する姿を示しています。それに対して、建物は、様々な材料が建築家によりしっかりと組み合わされ、一つの建物となる様に、教会が組み合わされてゆく様を表すと言われます。
先には、自らを農夫に例えたパウロが、今度は、建物で最も大切な土台を据える建築家にな自分をなぞらえたのです。しかも賢い建築家、熟練した建築家と呼んでいます。しかし、使徒は、その賢さも、神様から与えられた恵みと心得ていました。与えられた知恵をもって自慢し、互に争うコリントの人々を戒めている様にも思えます。
そして、パウロが教会と言う建物の土台として据えたのは、イエス・キリストでした。イエス・キリストが教会の土台とはどういうことでしょうか。「キリストが罪からの救いと永遠のいのちのただ一つの源であること、キリストによって私たちは父なる神を知ること、キリストの内にこそ、私たちの幸いのすべてがあると信じること。」そう、カルバンは説明しています
ところで、イエス・キリストと言う土台の上には、それにふさわしい建物が立てられなければなりません。キリストと言う土台の上にふさわしい建物とはどのようなものか。各々が注意深く建てるように、と勧められるのです。
3:12,13「だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。」
金から藁まで、6つの材料があげられていますが、ここは金、銀、宝石組と木、草、藁組の二つに分ければよいかと思います。その日つまりイエス・キリストが来臨する日に、さばきの火で焼かれても耐えることのできる金、銀、宝石でできた建物と、火で焼かれたら灰になってしまう木、草、藁でできた建物の二種類です。ならば、金、銀、宝石の建物と木、草、藁の建物とは何を意味しているのでしょうか。ある人は、教会で教えられる聖書の教え、教理のことだと言います。ある人は、教会員の人格を指すと言いますし、教会員の道徳を意味すると言う人もいます。
けれども、聖書の教えによって人格が整えられ、人格が道徳の実を生み出します。また、教会の交わりの中で切磋琢磨されて、私たちの人格は練られ、善き行いが養われるものです。そうであるなら、金、銀、宝石の建物とは、聖書の教え、人格、道徳において成長している教会のこと。木、草、藁の建物とは、それらの点において未熟なこと。キリストにある幼子の様な教会と言えるでしょうか。
果たして、私たちの教会はどうか。私たちひとりひとりの信仰生活はどうか。金銀宝石か、それとも木草藁の寄せ集めか。そう問われるところです。
3:14,15「だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。」
もしかすると、コリント教会の人々は、イエス・キリストが来られ、私たちの教会生活、信仰生活についてさばきを下すその日のことを忘れていたのかもしれません。少なくとも、その日を意識することなく、生活をしていたのでしょう。その緩んだ心に、パウロはくぎを刺しました。私たちの信仰生活の真価をためす日が来ることを忘れるな。その日が来ることを視野に入れて生活せよと。
尤も、ここで言われるさばきは、人間を永遠のいのちか、永遠の滅びか。どちらかに人間を分けると言うさばきではありません。イエス・キリストを信じる者はそのようなさばきから、免れていること、みな永遠のいのち、天国での生活が保証されていることを、聖書は教えているからです。
木草藁、それは、私たちの中にある悪しき思い、虚栄心から生まれた行い、自己中心的な動機と行動を示しています。それらはさばきの火で焼かれ、燃え尽きて、灰になるのです。しかし、そうだとしても、その人自身は、燃える火の中から逃れ出て、助かると言うのです。
どういうことでしょうか。私たちはここに、その人とその人のなした働きやわざを区別される、神様の正しく、あわれみ深いさばきを見ることができます。悪しきわざや虚しい働きは滅ぼしつくす神様の義。それにもかかわらず、キリストを信じる人を救い出さんと心を尽くす神様の愛。神の義と神の愛とが、来るべきさばきの日に一つとなること覚えさせられるのです。
私たちは改めて、私たちの救いと永遠のいのちの土台はイエス・キリストにあることを確認したいと思います。キリストの恵みと言う土台の上に、それにふさわしい信仰生活、教会生活を建てること。皆で励み、努めたいと思うのです。
こうして、建物の建て方に心をとめる様勧めてきたパウロですが、ここからは、さらに一歩踏み込み、「教会はただの建物ではない、神の宮だ」と語るのです
3:16,17「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。」
木草藁で建てる人々も、最後はその働きが火で焼かれてしまうにせよ、教会を建て上げようと努めた者、建設者でした。しかし、ここで使徒に警告されているのは、建てる者ではなく壊す者、教会の建てる者ではなく破壊する者です。恐らくコリント教会の中で、パウロ派、アポロ派、ペテロ派など各々が好む教会指導者を祭り上げ、争う者たち。顔を真っ赤にし、声を張りあげお互いに非難し、攻撃し合う人々の姿が念頭にあったのでしょう。パウロは、教会を壊す様なことをする者は滅ぼされると警告しています。
何故なら、あなた方は神の宮であり、神の御霊があなた方の内に住んでおられるからだと言うのです。仲間割れと言う欠点、汚点をもつコリント教会が、それでもなお神の宮だと言われる時、私たちも目を覚まされる思いがします。
教会は単なる社交場ではない。同好会でもクラブでもない。聖霊の神様が、特別に親しくご臨在下さる場所、イエス・キリストによって罪赦され、神の子とされた者が、それにふさわしい交わりを築いてゆくべき場所。聖なる神様が、私たちの思いと行動を見守っておられる所なのです。
勿論、私たちの教会にも、喜ぶべきことがあれば悲しむべきこともあります。真実な行いもあれば不真実な行いもあるでしょう。お互いに欠点や難問も抱えています。しかし、「あなたがたは神の宮であり、神の御霊が住んでおられることを知らないのですか」と言うことばに、私たち改めて教会が聖なるものであることに、心の目を開かれたいのです。聖霊の神様が共におられることを覚えて、教会生活、信仰生活に真剣に取り組みたいと思うのです。
こうして、教会が何たるものであるかを教えたパウロは、コリント教会の仲間割れ問題に、とどめを刺すます。再度知恵をもって自ら誇り高ぶる人々を戒め、神様との正しい関係へ導こうと心砕くのです。
3:18~20「だれも、自分を欺いてはいけません。あなたがたの中に、自分はこの世で知恵のある者だと思う者がいたら、知恵のある者となるために愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は神の御前では愚かだからです。「神は知恵のある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえる」と書かれており、また、「主は、知恵のある者の思い計ることがいかに空しいかを、知っておられる」とも書かれています。」
「この世で知恵のある者だと思う者がいたら、知恵のある者となるために愚かになりなさい。」とは、痛烈な皮肉と聞こえます。この世の知恵の限界を弁えよ。神の知恵であるイエス・キリストのことについて、もっと学べと言われているようです。そして、これは聖書全体で教えられていることとして、旧約聖書から二つのことばを引いていました。神は知恵のある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえる。主は、知恵のある者の思い計ることがいかに空しいかを、知っておられる。
ここで思い出されるのは、ローマ皇帝ネロのことです。ネロの時代、ローマの都はそれまで経験したことのない大火に襲われました。その時、ネロ皇帝が新しい都を建設し、自らの名誉とするため、都に火を放ったと言う噂が流布します。自分に民衆の人望がないことを自覚していたネロは、これは大変とばかり、放火犯の汚名をキリスト教徒にかぶせ、知らん顔を決め込みました。そればかりか、自らキリスト教徒の処罰、で処刑に乗り出したのです。この時使徒ペテロも殉教したと言う伝承もあります。
しかし、この決断は裏目に出ました。ローマ市民は、それまでキリスト教と言うものをあまり知らなかったのですが、不当残虐な処罰に耐え、キリスト教信仰を貫いて殉教してゆくキリスト教徒の姿を見て、かえってキリスト教に関心を持ち始めたと言うのです。他方、ネロは汚名挽回叶わず。かえって人望は地に落ち、最後は自ら命を絶つ始末となったのです。自らの悪巧みに捕らえられたネロ。この世の知恵の浅はかさでした。
さて、こうして、この世の知恵を基準にして、あの人の方が優れている、いやこの人の方が賢いと言い争い、また、その様に自分が選んだ教師を持ち上げることで、自分自身の知恵を誇ろうとするところに、仲間割れが起こった。そう見抜いた使徒は、コリント教会の病める所を突きます。
3:21~23「ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケファであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてはあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです。」
パウロは、自分だけではなくアポロも、ケファ、ペテロも、三人の教師が三人ともあなた方のものと宣言しています。パウロの福音と教会開拓の賜物、アポロの聖書知識と雄弁、ペテロの豊かな経験、それらはすべてあなた方の財産ではないですかと差し出しました。しかも、あなたがたが三教師のものではなく、三教師の方があなた方のもの、あなた方のために奉仕する者だと言うのです。
それだけではありません。世界、私たちが生きている世界、太陽も月も星も、山も川も草木も、大地も水も風も、すべてあなた方の喜びのため、益のためにある。神様が創造した世界は、神の子であるあなた方の財産なのですよ、と語ります。
次いで、「いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ」と人生に目を向けると、イエス・キリスト共に歩む者にとって、この世の人生もよし。死も一巻の終わりではなく、未来の天国での生活への門と変えられたので,これもまた良しとしています。
しかし、これで終わりではありませんでした。教会の教師も、この世界も、地上の人生も、天国での人生も、すべてはあなた方のものとしてきたパウロが、最後に、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものとひっくり返したのです。
最後に、私たちが仲間割れせず、一致するために必要なことを確認したいと思います。一つは、私たちの交わりの中に聖霊の神様がおられること、私たちが神の宮であると自覚することです。私たちは、聖霊の神様の目の前で、考え、語り、行動していることを、忘れないようにしたいのです。
ふたつ目は、キリストのものとして生きることです。教会の教師も兄弟姉妹も、この世界も、地上の命も死後の命も、すべての祝福が、神様から私たちに財産として与えられていました。それは、私たちが教会でも、この世界でも、また、地上でも、天国でも、キリストのものとして生きるためであることを覚えたいのです。教会でも、この世界でも、キリストを悲しませるようなことはしない。キリストが喜ばれることに全力を尽くす。その様な生き方を、私たち目指したいと思うのです。
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