皆さん、クリスマスの時期が好きでしょうか。私自身は本当に大好きですね。遠くから来る親戚と一緒に集まったり、プレゼント交換したり、クリスマスの曲を歌ったり、イエス様の誕生の話を聞けたりする時なので、ものすごい貴重な時だと思います。一年中楽しみにしているでしょう。
しかしながら、皆様が私の場合のように、クリスマスはそんなに特別な季節ではないと感じる時もあります。毎年毎年、時間が経つにつれて私たちの心が暗くなる危険があるのではないかと思います。そうなると、どうすればいいでしょうか。アドベントはイエス様の誕生を覚える機会として貴重な時なのに、たまに祝いたくない気持ちがあるでしょう。神様に近寄る気がないでしょう。クリスマスってイエス様と非常に親しく歩む時ですけど、正直に言えば、闇の中にいるんじゃないかと毎日感じていますと。
その距離は時々うちの妻との関係でも覚えます。この間、妻と喧嘩になって、もうしばらく仲直りはしたくない、話したくないとの態度をとってしまいました。おそらく、私たちだけかもしれませんが、一緒に時間を過ごすのは難しい、謝りたいけど、何も言えないとの状態でした。クリスチャン生活の中には、神様との関係でも、同じ現象は珍しくないでしょう。クリスマスの時には闇の中に一人で居たい、神様以外はなんでも求めるが、神様を仰ぐことが難しい人は居るでしょうか。このような時、まさにクリスマスの真実が最も良い治療なのです。こんな時でも、イエス様は私たちを全く諦めません。今日の箇所はちょうどそのテーマです。私たちは神様のそばから逃げる傾向があるのに、神様は私たちを絶対に見捨てません。
まず初めに、ヨハネ1章でイエス様はご自身を表してくださることが確認できます。「ことば」として、「神」として、そして「創造主」として、イエス様が世界に表されました
普通は、聖書の書の初めの数節でその著者は全体的に何を言いたいかに触れています。ヨハネの福音書もその通りです。ですが、マタイとルカとちょっと違い、イエス様の誕生から始めず、ヨハネはもうちょっと神学的に、全般的な話から始めます。ヨハネの福音書は、旧約聖書創世記の最初のできごとよりも、前のことから始まります。ヨハネ1章1節です。
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」
この「ことば」というのはイエス自身です。天と地が創造された前、イエスは神様と共にありました。四つの福音書の中では、ヨハネの福音書は歴史的に一番最後に書かれました。一世紀の後半に書かれて、他の福音書とは、書かれた目的も聞き手もちょっと違います。例えば、マタイはユダヤ人へ書いたので、マタイの福音書は「アブラハムの子、ダビデの子イエス・キリストの系図」から始まります。ヨハネはもっと広い世界の人々のために、ギリシヤ世界のために記していたので、もっと根本的な時から始めます。イエス様の重要さを理解してもらうため、哲学界からとった(ロゴス)「ことば」と名付けました。
古代ギリシャの哲学者のプラトンやアリストテレスなどにとっては「ロゴス」というのは宇宙の秩序と最高の目的という意味でした。当時の世界観と関連させるために、著者のヨハネはイエス様を紹介する時、「ことば」と呼んだのです。旧約聖書にも神様の出来事を語る時、「ことば」と言う手段を使う時もあります。[1] 神様は一番効果的な方法で私たちとコミュニケーションをとりたいといことが明らかです。人間も自分のことばで、自分を表します。イエス様が神様の「ことば」であるならば、神様に興味があるならば、イエス様を見るだけで、すぐ分かることができます。
続いて、「ことば」として表すだけでなく、「神」として表してくださいました。神様は永遠の昔から存在していました。始まりも終わりもない、時間も造った神様です。イエス様もその時に、神様とともにいました。
「この方は、初めに神とともにおられた。」(2節)
永遠の昔から、神様と一緒にいるからこそ、この方も「神」であることが明らかです。創世記1章を見ますと、「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」と神様は言われす。皆様が見ているように、神様は一人で造ることはしませんでした。イエス様、ヨハネ1章の「ことば」と一緒に創造されました。ヨハネの福音書1章と創世記1章を一緒に見ますと、三位一体という教理の証拠が見られると思います。イエス様はこう言いました「わたしを見た人は、父を見たのです。」[2]
旧約聖書の時代、モーセとか預言者を代弁者として、神様は民へご自分のことばを語りました。神様と民とは離れていたため、神様は民に直接語りませんでした。だが、現代は違います。イエス様の登場から、信じられないほど親しい方法でご自分のことばを私たちに言ってくださいます。[3] 新約聖書の時代から、代弁者なしに、神様、ことばが人となって私たちとともにおられました。人となったからこそ、私たちの状況、痛み、戦い、日常の詳細は全て知っておられます。
先日インターネットである調査の結果を見てびっくりしました。その調査は一つの質問だけでした。「神様が創造したものの中で、初めて創造されたのはイエスだった。賛成か、反対か」という調査でした。4分の3は賛成だと。しかし、3節はこうです。
「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、
この方によらずにできたものは一つもなかった。」(3節)
分かるでしょうか。イエス様は被造物ではなく、かえって創造主なのです。[4] イエス様はこの世界を創造したからこそ、この壊れた世界を治す力が確かにあります。イエス様によらず、何も造られなかった。イエス様によらずこの世界の一つも治らない。この真実を理解すれば、イエス様の力も、栄光も、私たちをいやすものに見えるでしょう。
何でもできるお方、何でも知っているお方と一緒にいると安心するでしょう、力強いでしょう。小学3年生の時から一人の親友がいます。エリックさんというアメリカ人です。小学校のころからすごい賢くて、エリックは名門の大学にいって、今弁護士として働いています。日本に来る前の頃でしたが、私と弟二人とエリックさんは四人のチームで地方のトリビア大会に毎週の水曜日に出ていました。私と弟たちはまあまあトロイのですけど、エリックは何のテーマでもそのトリビアの答えのことばは知っています。時々、残業でエリックは行けなかった日もあったけど、その日は絶対負ける。しかし、エリックさえ一緒にいれば、他のチームを負かすのはお茶の子さいさいでした。
エリックのそばにいると安心できる、ましてイエスと一緒にいれば安心できます。私と弟たちは自分の分担を十分果たす事は出来なかったけれど、エリックさんはそれを気にせず、親友だから喜んで手伝ってくれました。イエス様もそうでしょう。この世界の全てを理解して、全てを支配できる、全てを知っておられます。私たちを愛しているから、安心ができます。神だから、私たちを造ってくださり、私たちの家族を造ってくださり、このイエス様が知らないことは、この世界に何も起こりません。このイエス様はビックリすることも、心配することありません。その上、このお方は私たちとともにいるために来てくださいました。安心できるでしょう。イエス様に近寄りましょう。
でも、イエス様はご自分を表すことのみならず、私たちのために戦っています。4節、5節を見て、「いのち」と「光」として私たちのために戦ってくださっていることが確信できます。
「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(4節)
イエスにはいのちはありますが、これはどのようないのちでしょうか。「人の光」なので、全世界のために輝いています。普遍的な規模で輝いています。世界の全てを創造されたので、全てのいのちはイエス様から来るものです。聖霊的ないのちで、非常に豊かないのちです。このいのちにおける喜びは別のところには見つかりません。イエス様のみを通して得ることができます。ヨハネによると、イエス様は人類の光の一つだと言っていなくて、たった一つの光なのです。20章31節には、ヨハネは福音書の目的を語っています。「
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」
いのちって新約聖書の元々の言語のギリシャ語でいうと「ゾエー」です。長女の名前はゾイですけど、この「いのち、ゾエー」から名付けました。ゾイが、イエス様から永遠のいのち、豊かないのちを得られますようにと、生まれた時に祈りました。
うちの父親は電球を売る会社をやっています。建築業者や他の業者と協力して、新しい建物の電気を備える仕事です。父はいつも行ったことのない部屋に入ると、そこの電気の十分さと明るさを、ごく自然に計っています。私が子供の頃、自分の部屋で本を読んでいて、父が入ってきて、光の十分さがないところで読むのがバレて、叱られました。だから、光の大切さは幼い頃からよく分かりました。五節はこうです。
「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」
もう一度、ヨハネは創世記と関連づけています。創世記1章3節はこうです「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。」。神様が天と地を創造したように、イエス様は世の光を通して、この創造を癒すために遣わされました。
光は何のためでしょうか。光が輝くと、身体が暖かくなったりします。迷ったら、光が道を示してくれます。光があるところでは、いのちが促されています。イエス様はこう言われました。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。」[5] なのに、不思議なことに、私たちは闇の中に残る傾向があります。
先週山崎先生がおっしゃった通り、この闇は神様のことばに従わないこと、預言者の警告を聞かないことなのです。現代の私たちも同じ誘惑と戦っています。聖書にはこう書いてあります。「悟る者はいない。神を求める者はいない。」[6] それから、イエス自身によりますと「光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。」
[7]
そこで、私たちの問題は思っていたより大きいかも知れません。愛を持ってイエス様は私たちを創造したのに、イエス様を喜ばない、自分がやりたいことしかやりません。重要な第一の戒めは「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」[8]なんだけど、私のようであれば、しばしばいのちを尽くして自分だけを愛しています。これが闇なのです。自分にとっては赦しが必要ないと思うとしたら、自分の心を詳しく知らない、もしくは神様の光を、その人は知らないと思います。
だからこそ、私たちの外から来る救い主が必要でしょう。この闇に打ち勝つのはたった一人、イエス様のみです。なので、クリスマスが必要です。イエス様は私たちのために闇と戦って、完全な勝利を遂げました。闇の中に、私たちを見捨てませんでした。誰一人として、神様を求めないのですが、神様の方が私たちを求めました。そうして、この光は人となって、私たちと一緒にいる神様、インマヌエルと呼ばれました。なぜかというと、神様は私たちを愛してくださいました。「あなたたちが神様の大好物ですよ。」クリスマスはちょうどその証拠なのです。
不思議なことに、イエス様以外のものを求めるこの世の流れがあるでしょう。イエス様以外の、「いのち」と「光」のないものを信頼しようとしているでしょう。例えば、もし新しい家を建てれば、もし結婚すれば、もし昇進すれば、もし子供たちがいい成績取れれば、それで必ず幸せになるというふうに思うでしょうか。そのようなものは、別に悪い訳ではないのですが、それぞれのものにはいのちを与える力が全くありません。そのようなものは、イエス様と違います。イエス様は皆様のありのままで愛しています。罪だらけ、失敗だらけ、ありのままあなたたちを求めています。クリスマスというのは、その求めの重要な印なのです。
神様を求めるものは一人もいないのですが、イエス様を通して神様のほうは熱心を持って私たちを求めています。私たちは自分で自分の欠点を直すことができれば、クリスマスは必要じゃなくなります。しかし、欠点だらけ、恥いっぱいで、恐怖いっぱいで、孤独感を覚えている状態の中の私たちのために、イエスは闇を滅ぼしに来てくださいました。今の状態の私たちを求めてくださいます。
それは、他の宗教の教えとどう違うのかを考えてみてください。皆様は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という話を知っているでしょうか。ある日、御釈迦様は池の側で独りでぶらぶら歩いています。水の面を蔽っている蓮の葉の間を見て、その下には地獄の闇の中にいるカンダタという男が一人いました。出来るなら、その男を闇から救い出してやろうと考えました。御釈迦様は蜘蛛の糸をとって、カンダタを救うために闇の底へ下ろしました。
カンダタはこの糸を見ると、思わず手を打って喜びました。この糸にすがりついて、どこまでも登って行けば、きっと闇から抜け出せるのに違いないと考えました。こう思いながら、早くその蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐり登り始めました。「しめた!しめた!」と笑いました。ところが、ふと気がつくと、蜘蛛の糸の下の方には、数限りもない罪人たちが自分の登った後をつけて、やはり上へ上へ一心によじ登って来るではないか。
そこでカンダタは大きな声を出して「これ、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。下りろ。下りろ。」と喚きました。その瞬間に、糸がぷつりと切れて、カンダタと他の罪人はまた闇に中に落ちてしまいました。御釈迦様はこのシーンを見て、悲しそうな顔をしながら、またぶらぶら歩き始めました。
私たちみんな、カンダタのように闇の中にいて、自分のことばかり考えて、自分で自分を救うことはできません。しかし、私たちのイエス様は御釈迦様と全然違います。イエス様は私たちのプライド、私たちの自己中心、私たちの罪の全てを見て、闇の外にある安全なところにいるのではなく、闇の中に飛び込みました。私たちのためにイエス様は闇とされました。その闇はイエス様の光に打ち勝たなかった。十字架で私たちの一番大きな敵、罪、死、サタンを滅ぼしてくださいました。
だから、このイエス様に近づきましょう。人は闇を愛しているのに、神様は私たちを求めています。私たちを救うためにイエス様はこの闇に来てくださいました。今年のクリスマス、自分で自分を癒すことをやめて、この真実を理解しましょう。イエス様の真実によよって、慰め、励ましを受け取りましょう。
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