2018年9月2日日曜日

Ⅰコリント(13)「自分のからだをもって神の栄光を」Ⅰコリント6:12~20


神様は人間を創造した時、様々な良い賜物を与えてくださいました。それは、私たちが神様を喜ぶため、その賜物を用いて隣人に仕え、幸せな家庭、良い社会を築いてゆくためです。

ことばの賜物。仕事をする賜物。生活に必要なものを造り出す賜物。スポーツを楽しむ賜物。芸術を生み出す賜物。法律や社会の制度を整える賜物。本当に多くの賜物がありますが、性の賜物も神様が与えてくださった良き賜物の一つです。特に、性的な交わりを行う賜物は、夫婦となった男女が相手を喜び、喜ばせ、お互いの愛情を深めるために与えられました。

旧約聖書の雅歌には、男女が性的な交わりを求め、喜ぶ表現が溢れています。


1:15、16「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は鳩。

私の愛する方。ああ、あなたはなんと美しく、慕わしい方。私たちの寝床も青々としています。」

 76,710「ああ、人を喜ばせる愛よ。あなたはなんと美しく、麗しいことよ。あなたの背たけはなつめ椰子の木のよう、乳房はその実の房のようだ。… 私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」


 女性から男性へ、男性から女性へ。ここには、私たち日本人が少々気恥ずかしく感じることばで、愛する者と一つとなりたいと言う思いが、表されていました。

また、使徒パウロも、このコリント人への手紙で、禁欲主義的な人々に対し、夫婦がお互いのからだをささげ、性的な交わりをなすことは義務と教えています。


 7:1~4「さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが、淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。

妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。」


 妻が夫に対して義務を果たすにとどまらず、夫も妻に対して義務を果たさなければならないと、命じられています。性的交わりを求める権利において男女は同権。男尊女卑の風潮が強い時代において、この教えは革命的とも言われます。

しかし、「世界で一番古い職業は娼婦」と言われるように、この性の賜物程悪用、乱用されてきたものはないかもしれません。今でも、世界の各地に娼婦は存在しますし、男女を問わず、体を売買する商売は、一大産業と化しています。人身売買などの犯罪も後を絶たず、性の乱れ、悪徳は時代とともに深刻化していると言うのが現実でしょう。

 今、私たちが読み進めているコリント人への手紙、これは紀元1世紀半ば、使徒パウロがコリント教会に宛てた手紙ですが、この教会が建つコリントの町も例外ではありませんでした。むしろ、当時ギリシャ世界の中で、最も不品行が蔓延った町として、コリントは有名だったのです。

 コリントは港を控えた大都会。地中海を行き交う商人、旅人たちはコリントに上陸すると、旅の恥は掻き捨てとばかり、遊蕩にふけり、また旅立って行きました。どこの国でも、港町は風紀が乱れ、悪徳の巣となりやすいと言われますが、当時「あの人はコリント人の様だ」と言われることは、恥ずべき生き方の代名詞でしたから、コリントは別格だったのです。

 その様な町に建てられたコリント教会の中にも、不品行に陥る者が少なくありませんでした。先回は「父の妻を妻とする」兄弟がいたと聞いて驚きましたが、今回は町の遊女と交わると言う悪習から抜け出すことができない人々、平然とその中にとどまる人々がいたことを知り、唖然としてしまいます。

 コリントの町に腰を据え、労苦の末に教会を建て上げた使徒パウロ。言わば、コリント教会の生みの親であるパウロは、またも心を痛めながら、叱責のことばを語らねばなりませんでした。


6:12 「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。」


「すべてのことが私には許されている。」これは、コリント人が、自らの不品行を正当化するために用いていたキャッチフレーズであったと考えられます。イエス・キリストを信じる者は自由。いかなる律法、どんな戒めからも解放され、何を行っても許される自由を持っている。彼らはこう主張していたらしいのです。

元々、キリスト者の自由はパウロが教えたものでした。しかし、それは、聖書の律法を守らなければ神様に救われない、と主張した律法主義者に対し、罪人のために十字架で死なれたイエス・キリストをただ信じる信仰によって神様に救われると言う福音を、パウロが説いたことによります。

私たちにとって、救いのために律法を守ることは不必要となりました。しかし、救われた私たちには律法に従う自由が与えられた。これがパウロの教え、キリスト者の自由の正しい意味です。

ですから、キリスト者の自由をはき違えて、不品行を重ねる人々に、パウロは警告を鳴らしています。すべてのことが許されているとしても、当然そこには考えなければならない条件があるのではないですか、と。

ここに自由を行使するにあたり、考えるべき条件として、使徒は二つのことを挙げました。そのひとつは、「すべてが益になるわけではありません」とある、益の問題です。それを行うことは、私たちの信仰の歩みにとって益になるのか。隣人の幸せにとって益となるのか。この点をよく考えよと勧めています。それをすることが信仰の妨げになったり、隣人を不幸、不自由に押し込めるなら、それをやめる自由を行使するのが、キリスト者の自由でした。

もうひとつは、「私はどんなことにも支配されはしません。」とある様に、欲望に支配されやすい私たちの問題です。自由自由と口にし、自由に行動する人が、必ずしも自由とは限りません。かえって、何かに捕らわれ、非常に不自由な状態にある。そんなことを、皆様も経験したことはないでしょうか。

一度悪所に足を運び、やみつきになる。もうやめようと何度も決意するものの、止めることができずにまた足を向ける。それをキリスト者の自由と言い訳し、正当化する。コリント人の様に、肉欲に縛られた肉欲人間。あるいは、物欲に捕らわれた物欲人間。とにかく人の上に立ちたいと言う思いが強い、権力人間。怒りと恨みでがんじがらめの被害妄想人間。とかく、私たちは自由なつもりでいて、心の中にある何物かに縛られ、奴隷となっている。それでいながら、なかなかその不自由な状態に気がつかない。そんな弱さがある様に思います。

そのことを十分自覚した上で、「私は、肉欲にも、物欲にも、権力欲にも、怒りや恨みにも、どんなことにも支配されません。」そう言いうる心こそ、私たちが目指すキリスト者の自由であることを、確認したいと思います。次に、パウロは、コリント人たちのもう一つの言い分を取り上げています。


6:13,14「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが、神は、そのどちらも滅ぼされます。からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。 神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。」


食べ物は腹のためにあり、腹は食べ物のためにある。同じく、体は肉欲を満たすためにあり、肉欲を満たすために体はある。どうも、これがコリント人の唱える二つ目の言い分だったようです。彼らはこのことばを看板にして、恥ずべき不品行を弁護していたらしいのです。

愚にもつかない詭弁、屁理屈です。恐らく、この背後には、当時ギリシャ人の間で一般的であった、魂と肉体を切り離す考え方の影響があったと思われます。

ギリシャ人は、人の魂はきよくても、肉体の中に宿る欲望が悪を行うとして、肉体を悪いもの、滅ぶべきものと考え、これを魂の墓とか魂の牢獄と呼んで軽視しました。コリントの人々の中にも、この様な風潮のもと、自分の魂はイエス・キリストを信じ救われたのだから、肉体が何をしようと魂の救いには関係がないと考える者がいたのでしょう。

しかし、パウロはそれは違うと語ります。食べ物や腹は、死とともにその役割を終え、消滅するとしても、体は主のためにあり、主は体のためにある。だから、神様はイエス・キリストをよみがえらせたように、私たちの体をもよみがえらせ下さるとして、肉体の復活を説いたのです。

神様は、元々私たちの体を良いものとして創造しました。それをもって、神に仕え,人に仕えるものとして、私たちは素晴らしい体を頂いたのです。しかし、神様に背いた人間は、与えられた体を用いて罪を犯し、悪徳を行ってきました。尊い体を罪の器としてしまったのです。けれども、神様は復活によって、私たちの罪の体を栄光の体に変えてくださると言うのです。

神様がそこまで大切にしてくださるあなた方の体を、遊女相手に肉欲を満たすため用いることが、どうしてできるのですか。そんな使徒の声を、私たちも聞くべきところです。

そして、パウロは、いよいよ核心に迫ります。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部であることを知らないのか。自らの体がどれ程大切なものか、体をもってする性的交わりがどれ程大切なものであるかを知らないのか。コリント人に自覚を促す使徒のことばです。


6:15~18「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。それとも、あなたがたは知らないのですか。遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。淫らな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」


私たちの体は将来復活して、栄光の体に変えられるばかりか、今既に尊いキリストの体の一部である。このことを、皆様は自覚しているでしょうか。もし、自覚しているなら、遊女と交わり、キリストの体の一部をとって遊女のからだの一部とするような真似は、断じてできない。このパウロのことばの重みが分かるかと思います。

さらに、「遊女と交わる者は彼女と一つからだになります。」と言われていることも意味深長です。一つの体になるとは、一つの人格になること。人生のすべての面で、男女が人格的に結び合わされることを意味していると考えられます。

つまり、パウロは性的な交わりを、単なる欲望を満たすための行動とは考えていません。パウロにとって、性的な交わりは、「あなただけを生涯をかけて愛し、仕えてゆきます」という献身の思いを表す、大切な行いなのです。人生のすべてをかけて関わるつもりのない相手と、肉体的にだけ関係を持つことは間違っている。それは、重大な罪だと、使徒は言いたいのです。

また、「人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、淫らなことを行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」ということばにも考えさせられます。ここは難しいところで、様々に解釈されてきました。しかし、少なくとも、他の罪に比べて遊女との不品行程、相手の人格を無視した、自分の欲望を満たすためだけの酷い罪はないとは言えるでしょう。

神のかたちに作られた人間を、欲望を満たす物として見る、物として扱う。その様な罪を重ねることは、異性を尊い人格として愛する能力を、私たちから奪ってゆく。それが、「自分のからだに対して罪を犯す」と言われていることの意味ではないかと思います。

以上、神様が私たちの体をどれだけ大切に扱っておられるか。性的な交わりが、私たちの人生にとってどれ程大切な意味があるのかを見てきました。それを踏まえた上で、パウロによる最後の勧めに耳を傾けたいのです。ここが今日の聖句です。


6:19、20「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」


私たちは、自分の体が聖霊なる神様の住む宮、神殿であること、イエス・キリストがご自分の命を代価として買い取ってくださったからだであることを、自覚しているでしょうか。

この広い世界を創造した神様が、他にもっと良い住まいがあるでしょうに、何とこの私のからだを住まいとしてくださった。あのイエス様が、命をかけ、血を流して、この私のからだを罪の奴隷状態から解放してくださった。この恵み、この祝福を自覚すること程、私たちを良い行いに向けて励ますものはありません。

最後に確認したいと思います。今日の箇所を通して、皆様は自分のからだに対する見方、考え方は変わったでしょうか。食欲、性欲、支配欲など、これまで私たちは様々な欲望を満たすための器官、物質として、自分の体を見てはこなかったでしょうか。

しかし、それはとんでもない間違いでした。私たちの体は、幼くても、若くても、年老いても、弱くても,健康でも、聖霊の神様が親しく住む宮であり、キリストがご自分の命と引き換えに、罪から贖い取って下さったもの。神様の栄光を表すことのできる尊い体だったのです。自分の体をもって、人生のあらゆる分野で神様の栄光を表すこと、私たちみなが、今この時この場所で、神様の栄光を表すために何ができるかを考えながら、歩みを進めてゆきたいと思うのです。

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