2018年9月30日日曜日

「信仰者の勇気(5)~忠実に生きる~」ルカ12:35~48


聖書の神様を信じる者。キリスト教信仰を持つ者の生き方はどのようなものか。信仰生活には様々な側面がありますが、その中の一つは「救い主を待ち望む」という信仰、「救い主を待ち望む」という生き方があります。神を信じる者は、救い主を待ち望む者。

 旧約の時代、神を信じる者たちは、約束の救い主が来ることを待ち望むように教えられました。その約束の救い主が来られた後、新約の時代、神を信じる者たちは、もう一度来ると言われたイエス様の再臨を待ち望むように教えられました。いつの時代でも、神を信じる者たちは、救い主の到来を待ち望むように教えられているのです。裏返しますと、救い主の到来を待たない。救い主の到来などないとする生き方を、聖書は悪としています。


 Ⅱペテロ33-4まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。『彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。』


 聖書を神の言葉と信じる者は、キリストの到来などないとは考えないでしょう。しかし、どれだけキリストの到来を意識して生きているか。いつか来るだろうというのではなく、「主イエスよ、来て下さい」と願っているか。漠然と待つのではなく、待ち望むとは、具体的にどのように生きることなのでしょうか。私たちは、救い主が来られるのを待ち望む者として生きているでしょうか。


 このようなことを念頭に置きながら、今日はルカの福音書十二章の言葉を読みたいと思います。

 ルカの福音書十二章という箇所は、「数えきれないほどの群衆が集まる中、まずは弟子たちに話され」(121)その後で「群衆に向けて」(1254)語られた、イエス様の教えが記録されているところ。弟子向けの教えと、群衆向けの教えと、この二つを合わせると、十三章九節まで続く、比較的長い「教え」の記録。

 有名な言葉、有名なたとえ話も多く収録されているところで、是非とも後でこの一段落を読んで頂きたいと思いますが、全体として「備えること」「未来にどのように向き合うのか」がテーマとなっています。

今日私たちが注目するのは、弟子たちに向けて語られた教えの後半部分のところ。まずは二つのたとえ話からです。


 ルカ1235-40腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。主人が真夜中に帰って来ても、夜明けに帰って来ても、そのようにしているのを見てもらえるなら、そのしもべたちは幸いです。このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、泥棒の来る時間を知っていたら、自分の家に押し入るのを許さないでしょう。あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。


 一つ目のたとえは、「婚礼に行った主人としもべたち」。身支度を整えた主人が、親類や友人の婚礼に向かう。「いってらっしゃいませ」と送り出したしもべたちは、主人不在の家を守ります。夜になれば戸を閉める。奥様は先に休むとしても、しもべたちは、眠いのを我慢しながら、今か今かと主人の帰りを待つのです。主人の足音が聞こえたら準備をし、叩く音と同時に戸を開けて、「おかえりなさいませ」と申し上げる。主人が帰ってくる時には、真っ先にお出迎えをしたい。この主人のしもべであることが嬉しい。主人を愛してやまないしもべたちの姿です。

 このお出迎えを主人は喜ぶ。当時の文化からすれば想像も出来ないことですが(ルカ177-9)、主人が帯を締め、しもべたちに給仕するというのです。「やあ、お出迎え、ご苦労さん。私の帰りに備えてくれていたのかい、嬉しいよ。さあ、婚礼のお土産だ。私が支度するから、席に着いて待っていてくれ。皆で食べようじゃないか。」というところでしょうか。しもべたちを愛してやまない主人の姿。最後の晩餐で、弟子たちの足を洗うイエス様の姿が思い出されるところ。

 ところで「婚礼」と言いましても、これは約二千年前、ユダヤの文化で語られた話。当時の婚礼は、一週間から二週間行われました。その間、参加する者たちは適当に出入りしたようです。そのため、主人の帰りを待つしもべたちは、今日、今晩だけ待っているというのではなく、いつ帰ってくるか分からない主人を、それでも心待ちにしているという話になっているのです。


 もう一つの話は、「泥棒」の話。婚礼帰りの主人を待つ話から、泥棒に用心する話。当然のこと、泥棒がいつ来るか分かっているなら、盗まれることはないでしょう。いつ来るか分からない泥棒。だからこそ、いつ来ても良いように、用心しなさい。至って簡単な話。

先のたとえは、主人の帰りを、心待ちにしているしもべたちの話。泥棒に備えるというのは、泥棒が来ないようにすること。来て欲しくない、来ないように備える。同じ備えると言っても、だいぶ異なります。しかし、この泥棒に用心する話も「救い主の到来を待つ」ことを勧めるものです。

先に婚礼帰りの主人に扮したイエス様が、今度は泥棒に扮して語られる。自由自在というか、変幻自在というか。救い主の到来という重要なテーマを、主人の帰宅にたとえるのは分かりますが、泥棒の襲来にもたとえる。お茶目なイエス様と言って良いでしょうか。(とはいえ、救い主の再臨を泥棒の襲来にたとえるのはこの箇所だけではなく、第一テサロニケ、ヨハネの黙示録でも同様に表現されています。)

ともかく、この二つのたとえ話をもって、イエス様が弟子たちに教えているのは、救い主を待つことにおいて、くれぐれも用心するように。気を抜かないように。イエス様が私たちに願っておられる信仰生活は、救い主の到来を意識して生きること。

果たして私たちは、どれだけ真剣に、イエス様がもう一度来られることを意識して、日々の生活を歩んでいるでしょうか。「御国を来たらせたまえ」という祈り、「主イエスよ、来て下さい」という祈りを、真実なものとして祈っているでしょうか。今すぐイエス様が来られても慌てることはない、という信仰生活を送っているでしょうか。

 さて、二つのたとえを話されたイエス様は、ここでペテロの質問を受けることになります。ペテロは何と質問したのか。


 ルカ1241そこで、ペテロが言った。『主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。』


 ペテロからすると、このたとえ話が自分にも語られていることは分かった。しかし、自分含め、十二弟子だけへの勧めなのか。それとも、他の弟子も含めて語られたことなのか。気になったようです。何故、気になったのか。

 もしかすると、「主人がしもべたちのために食卓を用意する」あの特権は十二弟子に限定されたものではないかと考えたのか。主イエスの弟子という者も多くいるが、特に最も近くで、ご一緒している私たち十二弟子こそ、主人に給仕してもらう者として相応しいように思う。いささか手柄顔で、「この特権は十二弟子のものということで間違いないでしょうか」との問いだったと言って良いでしょうか。

 他の誰よりも長くイエス様に従ってきた。ともに過ごしてきた。「私には大きな特権があるはず」と考えるペテロに対して、イエス様はむしろ責任があると釘を刺すことになります。あなたがたは特別優遇されるどころではない、むしろ重大な責任があると話が続いていくのです。


 ルカ1242-46主は言われた。『では、主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。もし、そのしもべが心の中で、『主人の帰りは遅くなる』と思い、男女の召使いたちを打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めるなら、そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ報いを与えます。』


 先に語られた「婚礼に行った主人としもべたち」の話に似ていますが、こちらの方は、主人の留守中にしもべが何をしていたのかに焦点が当てられる。賢い忠実なしもべと、悪いしもべの姿を通して語られます。

賢いしもべとは、主人がいない間、与えられた役割を忠実になしている者。主人が帰ってきた際に、その忠実さを主人が認めるような者。片や悪いしもべとは、どうせまだ主人は帰ってこないとして、与えられた役割を放棄し、むしろ与えられた力を自分のために使う者。与えられた役割を忠実にこなしながら主人の帰りを待つしもべは、主人から絶大の信頼を得る。片や、主人が帰ってくることを忘れたかのように振る舞った悪いしもべは、厳しい罰を受ける。これもまた、簡単明瞭なたとえ話です。

 キリストの弟子として、他の者よりも年数を重ねた者。私こそ主イエスの直弟子、側近。私こそ主イエスの格別なおもてなしにあずかるのに相応しいと思っていたペテロに、責任の重さが告げられる場面となるのです。


 ところで想像してみて下さい。もし自分が家の管理を任された者だとしたら。賢いしもべとして生きることが出来るでしょうか。悪いしもべとして生きてしまうでしょうか。

主人に家の管理を任され、最初のうちは意気揚々と働きます。その働きに就けることを栄誉に思い、忠実に働きたいと願います。しかし、待てども待てども主人は帰ってこない。そもそも、いつ帰ってくるのか教えられていない。次第に気持ちは緩み、どうせまだ帰ってこないのだからと、さぼり始める。それが続くと、まるで自分が主のように振る舞い始め、他のしもべを打ちたたき、飲めや歌えの宴会を始める・・・。このたとえ話を自分に当てはめて真剣に想像してみますと、重要なことに気付きます。それは、主人がいつ帰るのか、語られていないということです。

自分が家の管理を任されたしもべだとして、一週間なら賢いしもべとして過ごせるかもしれません。一ヶ月でも大丈夫かもしれない。しかし、五年、十年、いやそれ以上となったらどうでしょうか。真剣に想像してみますと、いつ帰ってくるか教えてもらってない状況で、忠実に働きを続けることは容易なことではありません。

 主人がいつ帰って来るか分からない中、それでもいつ帰って来ても良いように働くしもべ。この賢いしもべのような生き方が、信仰者に期待される生き方となるのです。

 最後に今一度、神を知る者、キリストを信じる者の責任の重さが語られます。


 ルカ1247-48主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。


 大きな木はそれだけ日光を受けるも、同時に強い風雨も受けることになる。主人の思いを知る者、多く与えられた者、多く任された者は、責任が増す。神を知る者、キリストを信じる者は、神様の思いを知り、自分が管理者であることを知り、やがて主イエスが来られることを知る者。その私たちが、主イエスを待ち望むことをしないとしたら。与えられた人生を、管理者として忠実に生きないとしたら。それは大変な悪であることを教えられるのです。

 私たちはどれだけ真剣に、キリストの到来を待ち望んでいるでしょうか。自分の人生を、神様から託されたものを管理する者として生きているでしょうか。


 以上、救い主の到来を待つことについて、確認してきました。主の到来を待つ、再臨を待ち望むというのは、いつかイエス様が来られることを信じているというだけではありません。神様から与えられたと思う役割を忠実になしながら、いつイエス様の到来があっても良いように生きること。私たちが主の到来を待つというのは、ただ待つだけでなく、備える信仰、忠実に生きる信仰と言えるでしょうか。

 仮に、今晩、イエス様が来られるとします。その時、私たちの過ごす一日はどうなるでしょうか。その想像した生き方が、私たちの毎日の歩みとなるように。腰に帯を締め、明かりをともしている。主の到来を待つ信仰とは、今、イエス様が来ても良いとして生きることでした。

 今日、イエス様の到来があるものとして日々を生きようと志す時、英国の信仰者、マックチェインという人の祈りが思い出されます。マックチェインは朝になると「主よ。今日でしょうか。備えております。」と祈り、一日の終わりには「主よ。今日ではありませんでしたね。明日でしょうか。」と祈ったそうです。

「主よ。今日でしょうか。備えております。」

「主よ。今日ではありませんでしたね。明日でしょうか。」

救い主の到来に備える生き方、与えられた人生を忠実に生きること。その具体的な生き方の一つは、このような祈りを日々ささげながら生きることでした。

 もっとも、主イエスにお会いするというのは、再臨の時だけではありません。私たちが死ぬ時の場合もある。自分の死は、いつかは分からない。何十年後かもしれないし、今日かもしれない。老いも若きも、与えられた役割に忠実に生きなければならない。

 皆様は神様から与えられた役割とは何か、考えているでしょうか。

祈るように導かれていることはないでしょうか。愛を示したい人、励ましたい人、福音を伝えたい人はいないでしょうか。赦すこと、赦されること、和解が必要な関係はないでしょうか。教会を建て上げるために、世界を祝福するために、賜物や情熱を用いて労したいと願っていることはないでしょうか。自分に与えられたものを、神様のために用いるために、ささげようと思いが与えられていないでしょうか。私たち一人一人、異なる役割、使命が与えられていますが、それが何かよく考え、忠実に取り組むことをしているでしょうか。祈り、聖書を読み、礼拝をささげ、キリスト者の交わりを持ちながら、自分に与えられた役割、使命を見出すこと。そして、その働きに取り組むこと。そのようにして、キリストの到来を待ち望む者の歩みを全うしたいのです。

神様に与えられた人生を忠実に生きる。そのことに取り組みたいと思える人は幸いです。その思いすら持てなくなる時。神様の思いを知りながら、果たすことが出来ない時。聖書に従うことが出来ない時、どうしたら良いでしょうか。忠実に生きることすら出来ない私のために、イエス様が何をして下さったのか思い出すことです。忠実さに欠ける私を、イエス様なら造り変えることが出来ることを信じることです。「神様、忠実に生きることの大切さを教えられましたが、自分の役割が分かりません。自分の役割を果たすことが出来ません。どうぞ憐れんで下さい」と祈ることです。この礼拝が、神様に願い決心する場となりますように。主イエスとお会いする時、「私に与えられた役割はこれだと考え、忠実に取り組みました。」と言うことの出来る幸いを、皆で味わいたいと思います。

信仰者の勇気をテーマに、特に救い主の到来を待ち望むことに焦点を当てて考えていきたいと思います。

2018年9月23日日曜日

Ⅰコリント(14)「結婚の恵みと問題」Ⅰコリント7:1~11


昔から、恋愛、友情、仕事、老いなど、人生の様々な分野で格言、名言が語られ、残されてきました。中でも、結婚に関する格言、名言が最も多いと言われます。しかし、他の分野には各々の素晴らしさを語る格言、名言もあれば、それとは反対の否定的な格言、戒めの名言もあるのに対し、結婚に関しては、否定的な格言、戒めの名言が圧倒的に多いのです。昔から、人は結婚で悩んできたと言うことかもしれません。

例えば、「結婚は、鳥かごのようなものだ。外にいる鳥たちはいたずらに中に入ろうとし、中の鳥たちはいたずらに外へ出ようともがく。」フランスの哲学者モンテーニュのことばです。また、ギリシャの哲学者ソクラテスの、「人から結婚したほうが良いのでしょうか、それともしないほうが良いのでしょうかと問われるならば、「どちらにしても後悔するだろう」と私は答える。」と言うことばも有名でした。

ところで、皆様にとって結婚はどのようなものでしょうか。苦労はあるけれど良いもの、幸いなものでしょうか。悩みばかり多くて大変なものでしょうか。独身の方にとってはどうでしょうか。結婚はしたいものでしょうか。それとも余り積極的になれないものでしょうか。

神様の教えに基づいて結婚について考え、取り組む場合と、神様の教えは無視して、結婚について考え、取り組む場合では、大きく違ってくる気がします。

私たち日本長老教会の式文には、結婚についてこの様に教えられていました。少し私なりに変えた文章ですが、読んでみます。「結婚は神が人類の幸福のために、世の初めから定めた制度で、キリストと教会との交わり、一致を示す、大切な意味を持っています。それゆえ、道にかなわないで結婚してはなりません。結婚は、神を敬いつつなすべきです。」

しかし、折角神様が私たちの幸福のために定めた結婚という制度を、人間は悪用、乱用してきました。その結果、近親相姦、一夫多妻、不倫、離婚、男尊女卑、家庭内暴力など様々な問題が生まれてきたのです。神のこと等無視して結婚生活を送る人間たちが、結婚と言う良き制度を歪めて来たと言えるでしょう。今日では、結婚無用論、否定論を唱え、実践する人さえいる程です。

今読んで頂いたコリント人への手紙第一第7章で、著者パウロは、結婚の問題で揺れるコリント教会の人々に語りかけています。これまも触れてきましたが、ギリシャのコリントは港町。ヨーロッパとアジアを結ぶ交通の要にあたるこの町は、当時経済的繁栄を謳歌していましたが、性的不品行においても広く知られていました。「あの人はコリント人の様」と言われることは、非常に恥ずかしいことであったのです。

そして、その様な町に建てられたコリント教会は、高慢で、贅沢で、争い好きで、不道徳な町の雰囲気に流され、悪習に染まっていました。結婚とは本来何であるかを示し、良い影響を与えるべき教会が、逆に悪しき影響を受けてしまっていたのです。それでは、彼らの問題とは何だったのでしょうか。


7:1、2「 さて、「男が女に触れないのは良いことだ」と、あなたがたが書いてきたことについてですが、淫らな行いを避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。」


これまでは、自らが信頼する人のことばをもとに、パウロはコリント教会の問題を扱ってきました。仲間割れ、性的不道徳の問題について勧め、命じてきたのです。しかし、この第7章からは、コリント教会から送られてきた手紙に記された彼らの意見、質問について扱っています。「『男が女に触れないのは良いことだ』と、あなたがたが書いてきたことについて」、とある通りです。

それにしても、「男が女に触れないのは良いことだ」とはどういう意味でしょうか。これは、どう見ても、禁欲主義者の考え方です。実は、当時コリント教会には、父の妻を妻とする者を戒めようとしない兄弟や、町の遊女の元に通い詰めていた兄弟など、快楽主義者が存在していました。しかし、それとは逆に、男女の性的な交わりの一切を汚れと考え、どのような場合もこれを禁じ、独身こそ信仰的な生き方と考える禁欲主義者も、また存在していたらしいのです。

「男が女に触れないのは良い」と言うのは、この禁欲主義者の主張でした。それに対して使徒は、淫らな行いを避けるため、結婚せよと命じました。結婚の勧めとしては、消極的な気がします。しかし、パウロは性的な情熱と肉体を合わせ持つ、人間の現実をよく見ていたと言えます。快楽主義に反対する余り、あらゆる男女の性的な触れ合いを禁じると言う極端な理想を説く人々には、現実の世界に蠢く性的な誘惑がいかに強力で、危険なものであるか。見えていなかったのでしょう。それらの誘惑を前にして、いかに自分が弱い者であるか。分かっていなかったと思われます。

また、ここに勧められた結婚は、男も夫も、女も妻も単数でした。つまり、一人の男が一人の妻を、一人の女が一人の夫と結婚する。神様の定めた結婚は一夫一婦制であり、生涯を共にすることを誓約した夫婦において、性的な交わりは許されていることが確認できます。

さらに、パウロは、夫婦がお互いに、自分のからだを相手にささげる義務と、相手にそれを求める権利があると語っています。性的な交わりは汚れたものでも、恥ずべきものでもないこと、むしろ、尊重し、感謝すべき神の賜物であること。夫婦が人格的に一つとなるための大切な行いであることを説いてゆくのです。


7:3~5「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。互いに相手を拒んではいけません。ただし、祈りに専心するために合意の上でしばらく離れていて、再び一緒になるというのならかまいません。これは、あなたがたの自制力の無さに乗じて、サタンがあなたがたを誘惑しないようにするためです。」


当時は男尊女卑の時代でした。妻が夫の合法的な所有物であると考えられていた時代です。その様な時代にあって、「妻のからだは夫のもの」と言う主張には、多くの人が頷いたことでしょう。しかし、「夫も自分のからだについて権利を持っておらず、それは妻のもの」と言うことばは、人々を驚かせたに違いありません。

日本でも、「英雄色を好む」とか、「男の浮気は甲斐性」と言うことばがまかり通っていた時代がありました。同じように、当時ギリシャ・ローマの世界でも、夫には複数の女性と性的関係を持つことが許容されました。特に妻が子を産めない場合は側女を持つことは必要と考えられましたし、人々も寛容でした。しかし、妻が同じことをしたら人々から軽蔑され、家から追い出されたのです。その様な中、妻と同様、夫にも自分の妻以外とは、性的な交わりを持たない義務があること。妻に自分をささげて、喜びを与える義務があること。夫婦対等、男女同権を教えるこのことばは革命的でした。

他方夫婦には、ひとりの時間も大切です。特に一対一で神と交わる、聖書を読むなどの時間を持つことの自由や権利は尊重されなければなりません。しかし、その場合も、お互いに合意の上、しばらくの間、再び一緒になる、この三つの条件を守る様、パウロは注意しています。夫婦関係においては夫の横暴も、妻の我儘も許されない。二人で協力して、性的誘惑から自分たちを守り、結婚関係をきよく保ってゆく。聖書の教えは現実をよく踏まえ、冷静沈着。どこまでも夫婦対等でした。

黒田官兵衛、洗礼名はシメオン。日本一の軍師と言われた、戦国時代の武将です。ご存知の通り、数年前NHKの大河ドラマで取り上げられて、有名になりました。官兵衛に関しては、最初熱心なクリスチャンだったけれど、秀吉のキリシタン迫害の際転んでしまったと言う説と、いやそれは見せかけで、死に際にはキリスト教葬儀を願い、実現させたところからして、最後までキリスト教信仰を貫いたと言う、二つの説があります。

しかし、官兵衛がキリスト教信仰の影響を受けていたと思われる,幾つかの行動が記録に残っています。中でも、何よりも跡取りが大切な時代、子のない武将なら側室を迎えるのが常識であった戦国時代。子宝に恵まれなかった官兵衛が、最後まで側室を迎えず、一夫一婦を貫いたと言うエピソードは印象的です。人々が「子を得るために側室を迎えよ」と勧める中、ひとりの妻を愛し続け、仲睦まじい夫婦として慕われ、親しまれた官兵衛の歩み。個人的には、キリスト教信仰の証しと思えて仕方がありません。

さて、次は「独身もまた良し」「私のようにしていられるなら、それが良い」として、何が何でも結婚しなければと焦る独身の人々、特にやもめたちのために語るパウロのことばです。


7:6~9「以上は譲歩として言っているのであって、命令ではありません。私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。しかし、一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。結婚していない人とやもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。 しかし、自制することができないなら、結婚しなさい。欲情に燃えるより、結婚するほうがよいからです。」


「以上」と言うのは、これまで述べてきたことの中心点、即ち「不品行を避けるために結婚せよ」と言う勧めを指しています。それを受けて、これまで述べてきた結婚の勧めは譲歩であって(新改訳第三版では容認)、命令ではないと言い、今度は独身の勧めとなります。これまで結婚を勧めてきたパウロが、どうして独身を勧めるのでしょうか。

注意したいのは、パウロが語りかける相手が変わったことです。使徒が結婚を勧めたのは禁欲主義者でした。それに対して、独身を勧めているのは、未婚の人と結婚したけれども今はやもめの女性たちです。

当時は、結婚していない人間は一人前とは認められないと言う考え方が、一般的でした。未婚の人は社会的に弱い立場にありました。特に社会から軽んじられ、経済的にも貧しかったのが、夫を失った女性あるいは離縁された女性、やもめたちだったのです。

ところで、使徒パウロ程、結婚の祝福、恵みを高く評価した人はいないと言われます。特に、エペソ書の5章は、聖書中最上の結婚観と言われています。その一部を読んでみます。


エペソ524,25「教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。」


夫と妻の関係を、キリストと教会の関係に重ね合わせた結婚観。神様が定めた結婚の意味はこのことばに集約されていました。ですから、「私の願うところは、すべての人が私のように独身であることです。」と言ったからと言って、パウロが結婚を貶めているとは思えません。禁欲主義者のように自分が独身であることを誇っているとも考えられません。実際、パウロは結婚しており、妻と死別したか、あるいは、妻が病弱のためか。何らかの事情のため、一人で生活していたと考えられます。

ですから、パウロがしているのは、当時の社会で肩身の狭い思いを抱いて生活していた未婚の人々、特にやもめたちが、パウロのように独身の賜物を生かして、神と人とに仕えるよう励ますことではなかったかと思います。事実、初代教会はやもめたちを経済的に支え、神と人に仕えるやもめたちを尊んでいたことを、聖書は示しています。勿論、独身の兄弟姉妹が、自制するのが難しいと感じたり、強い情熱を感じる異性が与えられたら、結婚を考えるべきとも勧めていました。

聖書は、結婚と独身を比べて、どちらが上でどちらが下と言った価値観を教えていません。多くの人が結婚しますが、結婚した人の方が独身の人よりも優れている、社会的に一人前と言った考えもないと思います。大切なのは、各々が賜物を生かして、神と人に仕えること。それを目指して生きるなら、結婚もよし、独身もよしでした。

こうして、未婚の者、結婚していても夫婦生活の中にない者たちを励ましてきた使徒は、現在夫婦生活の中にある者たちに話題を転じています。まず取り上げるのは、夫婦とも信者の場合でした。


7:10,11「すでに結婚した人たちに命じます。命じるのは私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのなら、再婚せずにいるか、夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻と離婚してはいけません。」


昔から、身勝手な理由で離婚する夫婦は後を絶たなかったようです。福音書には、イエス様から「不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。」と教えられた弟子たちが、「そんなに不自由なことなら、結婚なんかしない方がましです」と抗議する場面が登場します。何度も言いますが、当時は男尊女卑の時代。夫は些細な理由で妻を離縁し、それが当然の権利と考えられていました。イエス様の弟子でさえ、その風潮に影響されていたのです。

しかし、ギリシャ・ローマの社会では、少し事情が異なっていたようです。勿論、男尊女卑の風潮は根強かったわけですが、その反動からでしょうか。コリントでは一種の女性解放運動が起こっていました。夫の不品行に対する罰として、あるいは信仰の自由を盾にして、愛想をつかした夫と離別する妻が出てきて、他の女性たちにも影響を与えていたらしいのです。

「夫に離婚の権利があるのなら、妻にも同じ権利があるはず。夫に一人の妻に縛られない自由があるのなら、妻にも同じ自由があるはず。男女同権なのだから。」夫も身勝手なら妻も身勝手でした。聖書が教える夫婦対等を理解しない男性、男女同権をはき違えた女性が、コリントの教会には存在したということでしょう。

しかし、パウロはあくまでも原則離婚禁止、嫌いになったら離婚して、好きになったら再婚する自由も認めてはいません。付け加えるなら、私たち長老教会は、相手の不貞、また、絶えざる暴力など結婚生活を故意に遺棄している場合を例外として、離婚を認めないことが聖書の教え、神様のみ心と言う立場をとっています。

以上、男尊女卑、快楽主義と禁欲主義。未婚の人ややもめ達が置かれていた社会の厳しい状況。自己中心的で身勝手な理由による離婚の増加など、結婚にまつわる当時の社会の風潮、人々の考え方を見てきました。皆様はどう思われたでしょうか。これらの風潮、考え方は、今も形を変えて、私たちの社会にも存在するのではないかと思います。

また、夫婦対等、男女同権。結婚生活において、自分を相手にささげ、仕える、性的な交わりの大切さ。神と人に仕えることを中心とするなら、結婚もよし、独身もまた良しとする価値観。自己中心的な動機から行う離婚についての厳格な戒めなど、今日の箇所を通して、聖書の示す結婚観の一端を、私たち確認することができたかと思います。

最後に皆様にお勧めしたいのは、自分自身の結婚観を点検することです。自分の考え方や行動の中に、この世の風潮や価値観の影響を受けている部分がないか。あるとすれば、どの点なのか。それを聖書的な考え方に修正し、実践してゆくために、どうすれば良いのか。結婚している方、未婚の方、結婚したけれど今は独身と言う方。それぞれの立場で、神様が与えてくださった祝福を味わい、神様に与えられた課題に取り組んでゆきたいと思うのです。

2018年9月16日日曜日

敬老感謝礼拝「教会~老人が救われる場所~」レビ19:32,Ⅰテモテ5:1~2


70歳以上の高齢者の皆様、ご長寿おめでとうございます。今日は敬老感謝礼拝。聖書から、高齢者はどう生きるのが良いのか、私たちは高齢者にどう接すべきなのか。このことを皆で学び、考えるひと時を持ちたいと思っています

日本では、満60歳の還暦に始まり、120歳の大還暦まで、古希、米寿、白寿など、長寿を祝う年齢と呼名が12個もあります。すべてのお祝いを経験する人は稀としても、高齢者を敬うという価値観が、現代の社会でも、失われていないことを感じます。

聖書も、今から三千年以上前に書かれたレビ記と言う書物の中で、敬老の精神を教えていました。


レビ記19:32「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」


当時、一般的に年長者は家族に敬われ、村や町では大切な役職に就き、社会において一目置かれていました。しかし、その様な時代であっても、「神を畏れる者は老人を敬え」と言う命令があること自体、既に高齢者が軽んじられていたことを示しているとも言われます。

事実、聖書の中には、年老いた父を嘲り、母を蔑ろにする子どもへの戒めがあります。老人に対して尊大にふるまう若者を正すことばもあります。養うべき両親の財産を許可なく使っても、泥棒にはならないと考える者がいたことを伺わせることばも登場してきます。こうして見ると、昔からどこの国でも、社会は若者中心。老人たちは寂しさや、辛さを感じながら生きてきたのではないかと思われます。

それでは、現代の日本はどうなのか。5年ほど前の事です。NHKが「他人事ではない老後の現実、老人漂流社会」という番組を放映していました。その中で、一つのことばがとても気になりました。セルフ・ネグレクトと言うことばです。

ネグレクトと言うのは、親が子どもに対してなすべき最低限の世話をしない、怠る。そう言う子供虐待の問題について使われます。それに対して、セルフ・ネグレクトと言うのは、部屋の片づけをしない、風呂に入らない、お金や通帳の管理をしない、病気になっても病院にかからない、必要な福祉的なサービスを断るなど、老人が自分の世話をしなくなること、怠ること。自己放棄とか消極的自殺とも言われます。

家族や隣近所からの孤立、家族や親族、友人の死や自分自身の病気など困難な出来事、認知症や精神疾患、家族を介護した後の喪失感や経済的困窮などにより、気力、体力ともに低下することが、その原因とされています。高齢者にとって、益々厳しい社会になってきたのかもしれません。

しかし、聖書には、厳しい現実の中、充実した老年期を送った人が登場してきます。また、良い老年期を送るための知恵も記されていました。今日は、その中から二つのことをお話ししたいと思います。

一つ目は、「何をしてもらうか」ではなく、「何ができるか、何をすべきか」を考えることです。ここで紹介したいのは、カレブと言う老人。このことばを語った時、カレブは実に85歳でした。


ヨシュア記141013a「『ご覧ください。イスラエルが荒野を歩んでいたときに、主がこのことばをモーセに語って以来四十五年、主は語られたとおりに私を生かしてくださいました。ご覧ください。今日、私は八十五歳です。モーセが私を遣わした日と同様に、今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです。今、主があの日に語られたこの山地を、私に与えてください。そこにアナク人がいて城壁のある大きな町々があることは、あの日あなたも聞いていることです。しかし主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができます。』ヨシュアはエフンネの子カレブを祝福した。」


カレブは、イスラエルの民にあって信仰の人でした。時を遡ること45年前つまり40歳の時、12人の仲間とともに、神様の約束の地を偵察すると言う任務を果たして、民の所に帰りました。しかし、約束の地に住む強敵を恐れた10人の仲間は、撤退を主張。それに対して、「神とともに約束の地に進むべし」と提案し、民を鼓舞したのがこのカレブとヨシュアの二人だったのです.

それ以来、同胞とともに旅を共にし、困難を共にしたカレブ。約束の地に入ってからも、先陣を切って戦い続けたカレブも、既に85歳。「カレブさん。あなたはもう十分私たちのために働いてくれましたから、ゆっくり休んでください」と声をかける人もいたことでしょう。実際に、カレブには、引退して休む権利も、栄誉を受ける権利もあったはずです。

「今も私は壮健です」と語ってはいますが、老カレブは様々な体の衰え、弱さ感じていたこことでしょう。来るべき死のことも考えていたに違いありません。しかし、そうであるとしても、老いた自分に何ができるか。同胞のため何をすべきかを考えたカレブは、城壁のある大きな町の攻略という一事に、残りの生涯の目標を定めたのです。

ある保険会社が、老後の生きがいついてアンケートを取った所、旅行、グルメ、健康、子供や孫、読書、映画、スポーツが上位を占めました。良いことだと思います。しかし、実際の高齢者に聞いたところ、それだけでは虚しい。たとえ小さなことでも社会に貢献することができた時、人の役に立つことができたと思える時が幸せ、と答える人が、非常に多いことが分かりました。

私の故郷の村に、自分の家の前だけでなく、向こう三軒両隣まで掃除をする、老人がいました。特に冬、雪が降った朝など、雪かきをしてもらうと、高齢者が多い村ですから非常に助かるわけです。老人は10年前亡くなられたのですが、娘さんとお話をする機会がありました。

娘さんは言われました。「掃除、雪かきの仕事は、父の喜びでした。右隣の家にはまだ手のかかる幼い子供がいて、左の家のお祖母さんは腰が悪いと知っている。じゃあ、自分は時間と健康を与えていただいたのだから、両隣は掃除しておこう,雪もかいておこう。そう考えて行動していたのだと思います。」

その老人は、有名高校の校長を務めた人、俳人でもあり、画家でもある。村一番のエリートでした。でも、老いてからは、世の中の評判とか地位とか一切関係なく、ただ人間としてやるべきことをしておられたのです。高齢になっても、掃除なんかくだらないとか、雪かきなんかつまらない。そう言う思いは微塵もない。何をしてもらうかではなく、何ができるかを考えて、その仕事をただ遂行し、喜びとする。

人々から松井先生と慕われた老人は、晩年娘さんからキリスト教を教わり、洗礼を受けました。村の墓には、十字架とみことばが彫られた、村でただ一つのキリスト教の墓が今も残っています。

ただ受けているだけの人は、もっと多く、もっと良いものをもらいたいと際限がなくなります。配偶者が「あれをしてくれない」、嫁が「これをしてくれない」と不満が募ります。しかし、与える側に回れば、小さなことでも楽しく、喜んでくれる人がいれば、さらに心は満たされるのです。

青年期は自分のことで、手一杯で回りに目が行かない。壮年期は家族のことで精一杯で、地域の事、社会の事に目を向ける余裕がない。だとすれば、老年期こそ、自分ができることで、それまで中々できなかった社会の為、隣人の為の仕事に力を注ぐ。そんな生き方ができたらと思います。

ふたつ目は、喜びを見つけること、感謝すべきことを見つけることです。ある人が「病人と老人は似ているところがある。それは、労わってもらって当たり前、してもらって当たり前と言う心の状態になりやすいこと」と書いていました。

しかし、東日本大震災の際、被災地支援に行き、被災した方々の話をお聞きした時、私は自分の生活が、どれ程この「当たり前と感じる心」に支配されているかを、思い知らされました。

ある方は、毎日食パン、缶詰、食パン、缶詰の食事が続く中、二週間ぶり口にしたうどんの暖かさが忘れられないと言いました。あんまり暖かくて、あんまり美味しくて、おつゆを一滴も残さずに飲んでしまったそうです。ある方は、暖房のない、寒さが凍みる体育館の床に寝ていたのだけれど、久しぶりに家族三人、それも二枚の敷布団にちょっと窮屈だけれど、寝ることができた。布団で眠れるってこんなに気持ちいいことなんだと感じたそうです。また、ある方は、被災地を離れて親戚の家に行った時、放射能のことを気にせず、きれいな空気を思いっきり吸うことができた。空気を思いっきり吸えるって、幸せなことなんだなあと話してくれました。

今まで当たり前と思っていたことが、当たり前じゃない。きれいな空気を吸えるのも神様の恵み、一杯の暖かいうどんも、布団で眠れることも、人々を通して神様が与えてくれた恵みだと初めて分かって、あんなに心から喜び、感謝することができたことはない、と言っていました。被災したことが良いとは思えないし、苦しいことも多いけれど、こうならなければ一生分からなかったかもしれない、幸せを見つけることができた気がする。そう話してくれたのです。

私たちの中にある幸せのハードル、いつのまにか高くなってはいないでしょうか。あらゆることが当たり前になり、身近なところにあるはずの喜ぶべきことや感謝すべきことを、見つけられなくなってはいないかと思うのです。

だからこそでしょう。聖書は喜ぶこと、感謝することを、私たちに命じています。


テサロニケ第一の手紙5:16「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」


ある老婦人が相談に来ました。「先生、私の娘のことですが、ひどいと思いませんか。いくら忙しいからと言って、私のお昼は毎日お好み焼きなんですよ。それも、何にも入っていないただのお好み焼き。何枚食べてもいいわよと言われても、そんなもの犬だって食べないって言ってやりましたよ。先生、何とか娘に言ってくれませんか。」

「私が何か言うより、もしかすると、お母さんが娘さんに、いつも私のためにお好み焼きを焼いてくれてありがとうね。その一言でよいので、心から感謝の思いを表したら、ずっと効果があると思います。」私はそう答えました。二週間後、その老婦人が報告してくれたんです。「いつも、私のためにありがとう」と娘に言ったら、次の日のお好み焼きには、ちくわが入っていました。美味しかったので、「本当においしかった。ありがとう。そう言うと、次の日もやっぱりお好み焼きでしたが、今度は干しエビが入っていたんですよ。」とても嬉しそうでした。

親子であっても、夫婦であっても、施設の職員でも、相手のしてくれることを当たり前とは思わない。こんなこと位当たり前と感じている自分に、本当にそうかと問いかけてみる。そこに神様の恵み、人の好意を見つけて喜ぶ。感謝を示す。あなたがそうすることには、相手を変える力がありますよ。そんな神様のメッセージが、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」と言うことばに、込められているのではないかと思います。

「引き算の不幸、足し算の幸福」ということばがあります。収入、仕事、社会的な地位、名声、健康、ある種の能力など、年を重ねるにつれ、私たちは様々なものを失ってゆきます。あって当たり前と思っていたものを失うのは辛いことですが、「あれもない、これも失った」と嘆き、数えていても、落ち込むばかり。これが引き算の不幸です。

けれど、老いてもなお、神様から与えられたものがあることを数えて、喜ぶ。人がしてくれたことを当たり前と思わずに、感謝を表す。気がつかないうちに高くなってゆく幸せのハードルをできる限り下げて、喜ぶべきこと、感謝すべきことを見つける生き方を、養い育てることができたらと思うのです。

最後に、高齢者の方にお勧めしたいのは、教会生活をすることです。今お話ししたような生き方を、ひとりで身に着け、実践することは容易なことではありません。老人には、すぐそばに老人を敬う人々の存在が必要ではないかと思います。また、よく言われることですが、異なる世代の人々との交わりも大切ではないでしょうか。


テモテの手紙第一51,2「年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。」


今日本では、ひとり暮らしの老人が増えています。特に65歳以上の高齢者のひとり暮らしが著しいそうです。諸外国に比べて配偶者の死別後も、子供と同居しない人の割合が、日本は高いのです。子どもと一人暮らしの親が行き来する回数も、非常に少ないそうです。老人の孤独です。

先ほど話したセルフ・ネグレクトの問題も、孤独化と深い関係があると言われます。ひとり暮らしは、お金がないのも辛く、不安だと言う人も増えているようですが、孤独はお金があっても、解決しないような気がします。私たちはみな愛し合う交わりの中に身を置く必要があるのです。

聖書にある様に、私たちの教会はすべての老人を敬う教会でありたいと思います。何歳であっても、健康であっても、病であっても、何ができても、できなくても、すべての年配者を敬うことを大切にしたい。男性の年配者を、自分の父親に対するように敬い、女性の年配者に、自分の母親にする様に仕えたいと思うのです。

高齢者の方にもお願いします。私たちを自分の子どものように思い、尊い人生の経験を伝え、間違っていると思ったら叱ってください。

高齢者と若い世代、高齢者と子どもたちが、あるべき関係を築いてゆくこと。それが、この世界に教会が存在する目的の一つであることを、今朝皆で確認し、神様を賛美したいのです。

2018年9月9日日曜日

一書説教(48)「ガラテヤ書~信じることによって~」ガラテヤ2:16


聖書は六十六の書が集まって一つの書となっています。様々な教えや出来事の記録が盛り込まれた分厚い書。聖書が教えていることを短くまとめるのは難しいものですが、中心的なメッセージを二つに絞るとすれば、一つは「世界を造られた神様を無視していることは罪であり、そのままでは悲惨である」こと。もう一つは、「神様を無視して悲惨な状態で生きている私たちに、救いの道が用意されている」こと。この二つです。

 このうち聖書が教える「罪からの救いの道」というのは、修行をすることではありません。善行に励むことでもありません。特別な技術を身に付けることでも、財産をささげることでもない。規則を守ることでもありません。救い主を信じること。自分で何かをするのではなく、ただ救い主を信じる。それ以上でも、それ以下でもなく、「救い主を信じる」ことだけが、「罪からの救いの道」として私たちに用意されたものです。

「罪からの救いに必要なのは救い主を信じることだけ」、これはキリスト教の根幹に関わる極めて重要な教え。キリスト教信仰を持つ現代の私たちからすれば、当然のことと思われる教え。しかし新約聖書が記された時代、この教えは本当にその通りなのか、議論の的となりました。当時、どのような状況だったのか、どのようにこのテーマが取り扱われたのか。歴史的記録として「使徒の働き」に記され、論述としては主に「ガラテヤ書」に記されています。


断続的に行ってきました一書説教。新約聖書に入り九回目。ガラテヤ人への手紙となります。「罪からの救いに必要なのは何か」というテーマに、舌鋒鋭く切り込むパウロ。この点では一切譲らない、妥協無しという力強さ、勢いが感じられるパウロの思いが滲み出ている書。一つの特徴は、対比が多いこと。恵みと律法、信仰と行い、子どもであることと奴隷であること、御霊の行いと肉の行いなど、二つのものが並べられる場面が多くあります。

この書を通して、改めて私たちはどのような恵みを頂いているのか。そもそも、恵みとはどのようなものか。確認していきたいと思います。毎回のことですが、一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 一書説教ガラテヤ書ですが、ガラテヤ書を読む前に、「罪からの救いに必要なのは何か」。このテーマについて、当時どのような状況だったのか、確認したいと思います。

 神様は、罪の中で悲惨な生き方をする人間が増え広がる世界にあって、「神の民」に人間としての本来の生き方。神様を信じ、従う生き方を示す使命を与えました。その「神の民」に選ばれたのが、アブラハムとその子孫、ユダヤ人です。

ユダヤ人は、人類の中にあって旧約聖書を受け継いできた者たち。世界を造られた神様を知り、信じる者たち。神様から、どのように生きるべきなのか教えられ、それを守ろうと取り組んできた者たち。「神の民」のしるしとして、「割礼」をする者たち。イエス・キリストは(肉において)ユダヤ人。十二弟子も全員ユダヤ人です。


 イエス様が十字架で死に復活された後。弟子たちに、「罪からの救いの知らせ」、福音と呼ばれるニュースを伝えるように命じます。誰に伝えるように言われていたか。

 マタイ28章19節~20節

「『ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。』


 イエス様は福音をあらゆる国の人々に伝えるようにと言われています。しかし、弟子たちは、すぐにあらゆる人々に伝えようとは取り組みませんでした。ユダヤ人にキリストを伝えていくのです。

 何故、弟子たちは、ユダヤ人以外にはキリストを伝えようとしなかったのでしょうか。旧約聖書を知らない者たち。つまり、そもそも世界の造り主を知らない。神様が、人間にどのように生きるよう教えているかも知らない。罪の自覚もない。そのような異邦人にキリストを伝えることは困難だと思ったのか。そのような思いもあったかもしれませんが(使徒の働きに出てくる弟子たちの姿からすると)、そもそも、異邦人と接する機会を持とうと考えていませんでした。(使徒10章28節)

 

 弟子たち、教会は、福音を伝えるのはユダヤ人だけ。異邦人とは交わりも持たないと考えていた。この状況が大きく変わるきっかけとなった出来事が、使徒の十章に出てきます。ペテロが異邦人のコルネリウスから家に来て欲しいと招きを受けた場面。

 幻を通して、異邦人の招きでも応じるように導かれたペテロは、コルネリウスの話を聞き、異邦人にも福音を伝えるべきと確信。ペテロの説教を通して、コルネリウスと、その友人たちがキリストを信じます。そのため、ペテロが異邦人に洗礼をさずけることになる。ペテロにとって、重要な経験となります。

しかし、この出来事はエルサレムの教会で問題となり、ペテロがエルサレムに行った時、詰問されたと言います。この時の非難の言葉が印象的なので確認しておきますと、

 使徒11章2節~3節

そこで、ペテロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちが、彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした』と言った。


 そもそも、異邦人と交わることが良くないと考えている状況で、ペテロは交わりを持ち、さらに洗礼までさずけた。これはどういうことかと非難する者たち。その非難の言葉は、「割礼を受けていない者たちとの交わり」でした。当時の弟子たち、教会にとって、「割礼の有無」が重要であったことが分かります。この非難に対して、ペテロは事の次第を伝えます。その説明を受けた教会の者たちは、次のように応じました。

 使徒11章18節

人々はこれを聞いて沈黙した。そして『それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ』と言って、神をほめたたえた。


 固執するのではなく、ペテロの話を聞いて自分たちの考え方を変えることが出来た。教会の麗しい姿です。このように、ペテロ含め当時の教会は、少しずつ理解を深めていく歩みとなるのです。キリストを信じると救われるのは誰なのか。ユダヤ人だけではない、全ての人に救いは広がっているという理解が広まるのです。

 全ての人に福音を伝えて良い、全ての人に救いは与えられる。とはいえ、異邦人はただキリストを信じるだけで救われるのか。異邦人も、旧約聖書をよく理解し、旧約聖書の教えに従い、「神の民」のしるしである割礼を受けた上で、キリストを信じる時に救われるのか。キリストを信じるだけで罪赦されるのか。割礼(それに代表されるユダヤ人のような生き方)と、キリストを信じること、この両方で罪から救われるのか。果たしてどちらなのか、という議論が巻き起こります。

 使徒15章1節~2節

さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに『モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と教えていた。それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。


 片一方に、旧約聖書の教えを守り、割礼を受けた上で、キリストを信じなければ救われないと考える人たち。特に、もともと熱心に旧約聖書の教えを守ろうと生きてきた人たちがそのように考えていたようです。(使徒15章5節)もう片方に、救いに必要なのは、キリストを信じることだけ。それ以外は一切不要と主張する者たちもあり、激しい対立と論争が起こります。果たして、神様はどのように教えているのか。どのように確認したのかと言えば、主だった人たちが集まり会議の開催となる。エルサレム会議という場面です。この会議で重要な意見を述べたのはペテロで、コルネリウスのことが語られます。最終的に、救いに必要なのは、キリストを信じることだけ。それ以外は不要と結論付けられました。このように、弟子たち、教会は、混乱の中から少しずつ、救いに必要なのはキリストを信じることだけと確認する歩みを送るのです。


 救いに必要なものはキリストを信じることだけなのか。割礼も必要なのか。その混乱の影響は、ガラテヤの諸教会にも及んでいました。

パウロによって立てられたガラテヤの諸教会。「救いに必要なのは、キリストを信じることのみ」との福音を信じた者たち。そのガラテヤの教会の人々が、「救いに必要なのは、キリストを信じることだけではないらしい」と考えるようになった。このようなことが背景にあり記されたのが、ガラテヤ人への手紙です。


全六章のガラテヤ書。大きく、前半、中盤、後半と三つに分けることが出来ます。

 前半(一章~二章前半)は、パウロが自分自身の正当性を弁明する言葉が多く出てきます。当時、キリストを信じる者たちの間でも混乱していた状況。旧約聖書に馴染みの薄いガラテヤの人たちからすると、異なる二つの主張がある場合、どちらが聖書の教えに沿っているか判断することは難しい。そのため、主張自体を判断するよりも、誰の主張なのかによって判断する傾向があったのでしょう。

 パウロと異なる主張をする者たちは、どうやらパウロ自身を攻撃していたのです。使徒と呼ばれるのは、イエス様とともに生活し、その死と復活の証人であることが条件。(使徒1層21節~22節)しかし、パウロはこの条件を満たしていないのに、使徒を名乗っている。そもそも、少し前まで激しく教会を迫害していた人物。パウロは、聖書の教えを簡単なものにして、人々を喜ばせようとしている者。このような者の主張は正しくないと非難していたようです。

 このような非難に対してパウロは懸命に応えます。何故自分が使徒を名乗っているのか。自分の主張は、誰かの受け売りではなく、イエス・キリストから託されたものであること。またその主張は、教会の主だった人たちにも承諾を得られていること。これが前半の主な内容です。


 中盤(二章後半~四章)は、救いに必要なのは主イエスを信じることのみ、という主張が繰り返されます。手紙の本論となる部分。核となる一つの言葉が次のものだと思います。

 ガラテヤ2章16節

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。


 律法を行うことでは、誰も義と認められない。何かをすることで、罪赦される者など一人もいない。義と認められる、罪赦された者となるために用意された道は、キリストを信じること。信じることによってのみ、救われるという主張です。

 そして、もしこの主張が間違いであるとしたら。もし、私たちが何かをすることで救われる道があるのだとしたら、主イエスが私たちのために死なれたのは無意味なことになる。何かをすることで罪が赦される道があると言うのは、キリストの死を無駄死にと言うようなものだと言います。

 ガラテヤ2章21節

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。


 このようにパウロは、救いに必要なのは信仰であると確認します。しかし、問題となるのは、信仰だけで良いのか、という点です。救いには信仰が必要としても、それ以外にも必要なものがあるのではないか。割礼を受けること、律法を守ることは必要なのではないか。もし救いのために、割礼も律法を守ることも不要と言うならば、神の民とされたユダヤ人の歩みは何だったのか。与えられていた律法は、どのような意味があるのか、という疑問が出てきます。

 そこでパウロは、神の民とされたユダヤ人の祖、アブラハムは何によって義とされたのか。アブラハムに対する約束はどのようなものか。律法は、それを守れば義とされるために与えられたのではなく、その一つの意味はキリストを信じるように導かれるものとして与えられたこと。キリストを信じることと、律法を守ることは並列に並べられるものではなく、子どもと奴隷の違いのようだと記していきます。


 後半(五章~六章)は、それでも、救いには割礼を受ける必要があると言うのであれば、それは何を意味しているのか語られます。

 ガラテヤ5章3節~4節

割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。


 救いにはキリストを信じることとともに割礼が必要という考え方は、そもそも、キリストを信じることになっていない。キリストを信じるとは、信仰以外に何もなくても救われると信じること。それこそが恵みなのだと言うのです。

 さらに、ここからキリストを信じる者の生き方に触れていきます。キリストを信じる者は、罪から自由にされた者。そのため、どうせ罪は赦されるのだから好きなように生きるというのではなく、愛を持って互いに仕え合うように。キリストを信じる者は、罪が赦されるだけでなく、御霊を頂く者で、御霊を頂く者とは、律法に従う生き方が出来る者。律法は、それを守れば義とされるために与えられたのではなく、その一つの意味は御霊を頂いた者の生き方を教えることにあるとまとめられます。


 以上、簡単にですがガラテヤ書のまとめでした。あとは是非とも、ご自身で読んで頂きたいと思います。ところで、ガラテヤ書が繰り返し述べる、救いに必要なのは信仰のみ。私たちが何かするということは一切ないというこのメッセージを、皆さなは喜んで受け入れているでしょうか。聖書の中心的な教えが、このようなもので良かったと思っているでしょうか。

 私たちは、心のどこかに、信仰の世界でも人から賞賛されたい。人から認められたい。私はこれだけのことをしたと自分の歩みに満足したい。という思いを抱くことがあります。「恵み」というのは、神様が素晴らしいのであって、私は何も素晴らしくない。それが嫌だという思いになること。そこまで露骨に意識しなくても、教会の中でも成功体験を求める傾向はないでしょうか。

 救いに必要なのは信仰のみ。これを本気で信じる、この教えに本気で立つというのは、私がどうしたい、こうしたいではない。自分の生涯を通して、ひたすらにキリストの素晴らしさ、恵み深さを表す生き方をすることにつながる。パウロの、告白が思い出されるのです。

 ガラテヤ人への手紙2章20節

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」

この書を読むことで、改めて、キリストを信じるとはどのようなことか。私たちはどのような恵みを頂いているのか。そもそも、恵みとはどのようなものか。私たちはどのように生きるのか。考えつつ、皆でパウロの告白に心を合わせたいと思います。

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...