皆様は、「酸っぱいぶどう」というイソップのお話をご存知でしょうか。一匹のキツネが、たわわに実ったおいしそうなぶどうを見つけます。食べようとして何度も跳び上がるのですが、ぶどうは高い所にあり、手が届かない。どうやっても届かず、怒りと悔しさで一杯になったキツネは何と言ったのか。「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか。」と捨て台詞を残して去っていきました、と言うお話です。
英語で、酸っぱいぶどう、Sour Grapes と言えば「負け惜しみ」を意味するそうですが、その源はここにありました。有名なフロイトの心理学では、このお話を、相手を悪く言うことで自分を守る、プライドを守る。そんな妬みの心、嫉妬心の例と見ているそうです。
西洋だけではありません。日本にも、「隣の芝生は青く見える」とか、「隣に蔵がたつと、こちらは腹が立つ」など、人の幸せを見るとイライラする。人が手にしている能力や称賛に腹が立つ。そんな妬みの心を表すことばは数多くあるでしょう。
昔も今も、妬みは癒しがたい人間の病。聖書は、神に背いた人間が、自分と人を比べて、妬んだり、争ったりする様を、くり返し描いていました。しかし、それが、イエス・キリストを信じる者の集まり、教会の中にも見られるとしたら、残念なことと言わねばなりません。
今、私たちが読み進めているコリント人への手紙第一は、紀元50年頃、使徒パウロによって書かれたものと言われます。その頃、手紙の宛先であるコリント教会は仲間割れで揺れていました。同じ教会に属しながら、パウロ派、アポロ派、ペテロ派と、各々が好む指導者の名をつけ、どの指導者も気に入らない者はキリスト派を名乗っては分かれ、争っていたと言うのです。
そもそも、コリント教会は、遡ること6年前。始めてヨーロッパの地に足を踏み入れたパウロが、苦労して生み出した教会、我が子のように大切な教会でした。それが、分裂寸前の状態にある。そんな知らせに胸を痛めたパウロは、早速この手紙をしたため、問題の解決にあたることにします。
パウロの耳には、他にも悲しむべき様々な知らせ、問題が届いていましたが、まずは要となる仲間割れの問題から、と考えたのでしょう。1章から4章まで、この手紙の前半は、教会内の対立を戒め、一致を勧めることがテーマとなっています。
仲間割れ、対立の原因は何か。どうすれば、私たちは一致できるのか。この点を心にとめながら、今日のところ読み進めてゆきたいと思います。
3:1「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。」
「兄弟たち。」そうパウロは呼びかけています。仲間割れをしていたにもかかわらず、パウロは、イエス・キリストを信じる者同士、同じ兄弟として、コリント教会の人々に接していました。
しかし、兄弟愛を示す一方、厳しい言葉も向けています。あなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人のようにしか話せなかった、という言葉は、互いに自分を誇り、争うコリントの人々に、どれ程衝撃を与えたことでしょうか。
「御霊に属する人」とは、イエス・キリストを信じた者、クリスチャンのことです。他方、「肉に属する人」と言うのは、「キリストにある幼子」と言い換えられている様に、キリストを信じてはいても、まだ幼子の状態にある人、成人として十分成長していないクリスチャンのことです。
イエス・キリストを信じた時、私たちは新しく神の子として生まれました。新生です。しかし、新生した私たちは、一挙に完成するわけではありません。新生は、成長の始まりであり、スタート。知識、霊性、道徳の点において、私たちは幼子がそうであるように、時間をかけ徐々に成長してゆくのです。
ところが、コリントの人々は、体は成長しても、その霊的成長は止まったままだ、と指摘されました。パウロは、幼子であることと大人であることについて、次に様に教えています。
14:20「兄弟たち、考え方において子どもになってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。」
幼子のように純真で、初々しい心をもつこと、同時に、判断力、考え方においては、大人になること。それが、私たちに求められていることです。それなのに、どうも、コリントの人々は、信仰の年数を重ねても、考え方において幼子のように自己中心で、成熟が見られなかったようです。
そんなあなた方には、今でも堅い食物、大人の食物は無理ではないでしょうか。そう諭すパウロでした。
3:2「私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。」
人間の知恵や雄弁を重んじるコリントの人々の中には、「パウロの教えは、大したものではない。底が浅い、単純で、初歩的なことばかりだった」と批判する者がいたのでしょう。
知恵を誇る彼らは、人間の知恵では神のことは理解できないという、知恵の限界を弁えることがなかったようです。雄弁を重んじる彼らは、黙々と十字架に上り、苦しみに耐え、人類の罪の贖いとなられた、イエス・キリストの行動の意味を理解することができなかったのです。
ですから、パウロは、「あなたがたが幼子のように未熟であったから、私はあえて単純な福音、キリストの十字架の事実を説いたのですよ。」と答えています。
パウロは、相手に応じて福音の説き方、教え方を工夫する伝道者でした。ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のごとく。相手の信仰、能力に応じて、みことばを語りました。「人々の聞く能力に応じて、みことばを話された」イエス様のことを、模範としていたのでしょう。
ともかく、パウロが前に訪問した時には、未だ堅い食物はコリントの人々には無理だったし、聞くところによれば、年数を経た今でもまだ無理ではないかと、指摘したのです。
3:3、4「あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。」
コリントの人々が霊的に未熟であることの証拠として、もう一度、仲間割れの実態が引き出されました。ここで、パウロ派とアポロ派だけがあげられ、ペテロ派が除かれたのは、パウロとアポロのふたりが、より深くコリント教会に関わり、奉仕してきたからでしょう。
そして、コリントの人々に対する言葉は、厳しさを増しています。前の1節で「肉に属する人」と言われた彼らが、ここでは「肉の人」「ただの人のよう」と言われています。「肉の人」は「肉に属する人」よりも未熟で、より一層自己中心の思い、欲望に支配されている者を意味してます。また、「ただの人」とは、まったく神を畏れることのない人を指していました。
せっかく、イエス・キリストを信じ、救われたと言うのに、あなたがたは肉の人、ただの人のようですね。体は大きくなっても、我を張って兄弟げんかを繰り返す。そんな情けない子どもたちを叱らねばならない親の悲しみが、聞こえてくるようです。
ところで、その頃ギリシャの世界でよく行われていたのが、特別な知恵や力を持つ人を神のように崇めること、人間崇拝でした。コリント教会にも、その気配、影響を感じたのでしょう。パウロは、自分もアポロも崇められるべき神ではない。あなた方が信仰に入るため、神が用いたしもべに過ぎないと語ります。
3:5、6「アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」
私たちが説いた教えも、私たちが発揮した力も、私たちが収めた成功も、そのすべては、私たちのものではなく、神から与えられたものに他ならない、と言う勢いです。尤も、だからと言って、パウロが自分たちの働きを過小評価していたわけではありませんでした。パウロは使徒、アポロは伝道者として、神に立てられた者であることを認めていたのです。
「私が植えて、アポロが水を注ぎました。」と、自分たちの役割をわきまえながらも、「成長させたのは神です。」と、唯一の神をあがめる。パウロは、自分たちの奉仕を、過大評価も過小評価もしてはいなかったのです。
パウロは誰よりも早くコリントの町を訪れて、コリント教会の建設にあたりました。その後コリントに来て、兄弟姉妹を大いに助けたのがアポロ。農夫に例えれば、パウロが植えて、アポロが水を注いだのです。しかし、それは各々与えられたことをしただけで、成長させたのは神だ、と言うのです。神が主人で、自分たちはしもべ。しもべを主人のように過大評価をしてもいけないし、神のしもべとして働く者を過小評価すべきでもない。このバランスの取れた考え方が、次の節にも続き、結論となっています。
3:7~9「ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」
パウロが農夫のことを例としているのは、主人である神と、働き手である人間の関係を、コリントの人々に良く分かって貰いたかったからでしょう。農夫は土壌を作ることはできません。また、日光も空気も作ることはできません。農夫は、ただ神の作った種を、神の作った土に植え、神の作った水をこれに注いで、あとは収穫を待つのみです。
伝道も同じでした。私たちは福音の種を蒔き、水を注ぐだけ。そのほか全てのことは神様がしてくださるからです。パウロとアポロとは、まるで一人の農夫のように、働いてきました。パウロが種を植え、アポロが水を注ぐ。同じ使命、同じ心をもって奉仕したのであって、二人の間には、コリント教会の人々が勝手に騒ぎ立てているような対立は、全くなかったのです。
私たちは、同じ神のために働く同労者。各々が神の教会に仕えられたことを喜び、感謝する仲間同士。それなのに、どうして、あなたたちは私たちの名前を使って、仲間割れしているのですか。パウロとアポロ、どちらが上で、どちらが下などと、言い争うのですか。あなたがたも、私とアポロのように、一致してください。そう勧める、パウロの声が聞こえてくるところです。
こうして、今日の箇所を読み終えて、最後に確認したいのは、肉に属する人とはなにか。御霊に属する人とは何かと言うことです。コリント教会の人々が、自分たちのことをどう思っていたのか。この手紙の中のいくつかのことばから、伺うことができます。
8:1「私たちはみな知識を持っている。」
10:12「(信仰に堅く)立っている。」
14:37「自分を預言者、御霊の人と思っている。」
しかし、その実態はどうだったのでしょうか。私たちはみな知識を持っていると言いながら、その知識で一人の人をあがめ、他の人やグループ批判し、争っていました。信仰に堅く立っていると確信していましたが、酷い不品行を許しています。自分を預言者、御霊の人と思っていましたが、何のことはない。教会内のトラブルを解決できず、この世の法廷に訴える始末だったのです。
限りある知識で我を押し通し、相手を批判、攻撃する。善悪の判断力が乏しい。問題を解決する実際的な知恵や忍耐力を欠いている。肉に属する人とは、自分の中にある未熟さに気がつかない人、自分の未熟さを認めて、それに向き合うよりは、人を責めたり、周りに責任を押し付けることで、自分を守ろうとする人。それなのに、自分に問題はないと考えているのが肉に属する人なのです。
それに対して、御霊に属する人は、神の前で、自分にどれ程未熟な点があるのか、認めている人、それを修正しようと努める人です。相手を批判することよりも、相手を理解し、建て上げるために知恵を尽くす人。神の目で、事の善悪を判断する人。争うことよりも、和解することを求め、努力する人。神の無限の愛に信頼して、罪の悔い改めの歩みを続ける人です。
私たちが肉に属する人、キリストにある幼子から、御霊に属する人へと成長することを目指す時、私たちの家庭、教会、職場、地域、世界、そこに一致と平和をもたらすことができる。その為に、私たちは神様に生かされていることを、心に刻みたいと思います。今日の聖句です。
ローマ12:16,17「互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。」
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