イソップ物語に「胃袋と足」という小話があります。「胃袋と足が能力のことで言い争った。足が事あるごとに『自分の方がずっと有能で役に立つ、お前なんかそっくり運べるほどだ』と胃袋を見下す。すると、胃袋も足に、『しかしな、お前さん、わたしが栄養を補給してあげなかったら、お前さんたちだって何も運べないのだよ』」と応酬するというものです。
「あれ、この話し、どこかで聞いたことがある」と感じた方もいるでしょう。胃袋と足を目と手に変えれば、そっくりそのままのお話が、コリント人への手紙にも登場してきます。
同じ教会に属しながら、四分五烈していたコリント教会。同じキリストの体の器官同士でありながら、パウロ派、アポロ派、ペテロ派と、各々が好む指導者の名をつけ、どの指導者も気に入らない者たちはキリスト派を名乗って、争うコリント教会。この手紙を書いた時点から遡ること6年前、自ら苦労して生み出した大切な教会が、分裂寸前にあることを知らされたパウロは、矢も楯もたまらず手紙をしたためた。それが、このコリント人への手紙第一です。
しかし、コリント教会の問題は、分派、対立だけではありませんでした。教会員同士の揉め事をこの世の裁判所に訴える者、性的不道徳に陥る者、聖餐式の後の食事の席で貧しい兄弟を辱める者など、これが本当にキリスト教会かと嘆きたくなる程、様々な問題が存在したのです。
この時、コリントの町から海を隔てた対岸の町エペソにいたパウロは、我が子のような教会が、ここまであるべき状態から落ちてしまったことに胸を痛めました。けれども、その様な教会であっても神の教会と確信する使徒は、この大切な教会をあるべき姿へと回復すべく、一つ一つ問題を取り上げては、処方箋を与えてゆくのです。
そして、問題を整理したパウロは、まず取り上げるべきは分派対立の問題と考えたのでしょう。挨拶を述べた後、早速こう勧めています。
1:10「さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。」
どうか、あなた方にお願いします。仲間割れせず、一致するように。1章から4章まで、手紙の前半は、教会内の対立を戒め、一致を勧めることがテーマとなっていました。この点を心にとめて、今日のところ読み進めてゆきたいと思います。
2:1、2「兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。」
当時この地方には、町々を巡り歩く巡回哲学者と呼ばれる人々がいて、人々は彼らの話を聞くことを楽しみにしていたと言われます。ことばと知恵を重んじるギリシャ人の例に漏れず、コリントの人々も雄弁に語る者、知識や教養を感じさせる話をする者を、格別に尊敬し、好んだと言われます。例え内容が良くても、訥弁の人、単純な話をする人は軽んじられました。巡回哲学者も、演説で糧を得るわけですから、雄弁な語り方や機知に富む話し方を磨くことになります。
そんな町の風潮に影響されたのでしょうか。コリント教会も、使徒や指導者の語ることが、神様からのメッセージかどうかよりも、語り方が雄弁か、話し方に知識や教養が感じられるか。その様な点で評価し、各々の好みによってグループに分かれ、争っていたらしいのです。
勿論、雄弁や機知に富むことにも意味があります。あったらよいものと思われます。しかし、それらは大事ではあっても、キリスト教信仰にとって最大事ではありません。まして、それらがキリスト教信仰にとって最大事である、イエス・キリストを伝える上で邪魔になるとしたら、自分はそれを捨てる、いや捨てたと、パウロは語るのです。
それも、キリストはキリストでも、十字架につけられたキリストのほかは知るまいと決心して、コリントの町に乗り込んだと言う点が心をひきます。真理の教師、人間の理想としてのキリストではなく、私たちの罪のために十字架につけられたキリストを示すことに、専念したと言うのです。人間が考えた宗教や哲学ではなく、神の御子が十字架の上で肉を裂き、血を流して、私たちの罪の贖いとなられたという歴史の事実を伝えることに集中したのです。
そして、その訳は、あなた方の信仰が、人間の知恵に支えられるものではなく、神の力に支えられるものとなるためだったと言うのです。
2:3~5「あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。」
思い返せば6年前。コリントの町に入った時、自分は弱く、恐れおののいていたと、パウロは告白します。大都市コリントの中でただ一人の孤独。ともに労苦する仲間のいない寂しさ。加えて、ヨーロッパに入ってから苦しめられ続けた、キリスト教信仰への迫害、ユダヤ人の妨害、人々の冷淡な態度も骨身にしみる辛さだったことでしょう。また、罪人である自分が、尊い福音を伝えることへの畏れがあったとも考えられます。わ使徒と言っても鉄人ではない。傷つき、疲れ切り、弱く、壊れやすい一人の人間でした。しかし、ある夜、神様が幻に現れて、パウロを励ましたのです。
使徒18:9 、10「ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」
この後一年半。パウロがこの町に腰を据えて教会建設にあたることができたのは、この神様の激励があったからでした。さらに言うなら、弱さと怖れを経験したのは、パウロが真に神様に頼り、神様の力によって強められるために必要な経験だったと考えられます。
もし、私たちの信仰が、人間の知恵によって支えられているなら、さらに優れた知恵によって、ひっくり返ってしまうかもしれません。もし、私たちの信仰が、雄弁なことばによって支えられているなら、もっと雄弁に語るキリスト教反対論に挫かれてしまうでしょう。
「あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるために…」。果たして、私たちの信仰は人間の知恵や、雄弁に支えられているのか。それとも、神様の力に支えられている信仰なのか。自分自身の信仰の土台を確かめたいところです。
さて、ここまで、「すぐれたことばや知恵を用いず」とか「説得力のある知恵のことばによるものでなく」、「人間の知恵によらず」と述べてきたパウロ。「でも、それでは余りにも知恵と言うものを軽視している」と反論する者があると考えたのでしょうか。
「いや、私たちクリスチャンも知恵を知っている。但し、その知恵は神の知恵。私たちが語るのは神の知恵だ。けれど、この知恵を、生まれつきの人間はだれ一人知ることができない」と力説します。人間の知恵が無用とか、何の役にも立たないと言うのではありません。パウロが言いたいのは、人間の知恵は、神の知恵を知ることができないこと、人間の知恵の限界でした。
2:6~8「しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」
「井の中の蛙、大海を知らず」と言うことばがあります。小さな井戸の中に住む蛙が、大きな海を知らないように、狭い知識にとらわれて、ほかに広い世界があるのを知らない様、自分の知っていることがすべてだと思い込んでいる人のことを言います。
世界を創造した神が人間の罪を悲しみ、自ら人となって地上に下り、一人のしもべとなって罪人に仕える。ついには身代わりに十字架にかかって罪人を救うという出来事。神が世界の初めから考えていたこと、神の知恵を、ユダヤの支配者、ローマの支配者は知る由もなく、自分たちが正しいと思い込んで、キリストを十字架につけました。
彼らだけではありません。この手紙を書いたパウロ自身が十字架の意味を言理解できず、キリスト教反対、クリスチャン迫害の鬼として活動していました。この手紙にも「十字架につけられたキリストは、ユダヤ人には躓き、異邦人にとっては愚かなこと」とある様に、当時多くの人々が、神が罪人に代わって死ぬなど、そんな馬鹿なことがあるはずがないと考えていました。今でも、神が世界を創造したとか、人間になったとか、まだ、そんな時代遅れのことを信じている者がいるのかと、キリスト教否定論者が沢山いるでしょう。
昔も今も、人間は井戸の中の蛙なのです。自らの知恵の限界をわきまえず、自分の知っていることがすべてと思い込み、せっかく差し出された神の知恵を拒んできたし、今も拒み続けています。
大学生の時、信仰の恩師からかけられたことばに、忘れられないものがあります。それは、私が神学校に進むきっかけになった一言でもありました。
ある日曜日夕礼拝の後のこと。「俊ちゃん、大学卒業したらどうするの」と卒業後の進路について尋ねられたのです。私は「出版社に入って、本の編集とかやりたいと思っています」と答えました。
すると、「ふ~ん。それも向いているかもね。でもね、どんなに良い本も、時間がたてばゴミの山。忘れられてゆくんだよね。人間の思想とか哲学とか知恵と言うのは、流行り廃りがあるんだよ。でも、聖書は違う。聖書の福音、聖書の真理は永遠で、廃ることはない。世界中の人を救い、生かして来た永遠の真理なんだよ。生涯かけて仕事をするなら、流行り廃りのある真理と永遠の真理、どちらのために仕事をすることにやりがいがあるのかな。」
人間の知恵と神の知恵。流行り廃りのある真理と永遠の真理。どちらのために仕事をすることにやりがいがあるのか?もしかすると、先生の心には、このパウロのことばあったのかもしれません。
それでは、この神の知恵は、一体誰に示されたのでしょうか。イエス・キリストの十字架が福音、良き知らせであると知ることができたのは誰なのでしょうか。
2:9 「しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。」
人間と言う人間が、見たことも、聞いたこともないもの。思ってみたこともないこと、つまり神の知恵を、神様は、その愛する者たち、実は私たちのために備えてくださったのではないですか。そうパウロは、コリント教会の兄弟姉妹に、また今の私たちにも語っています。
「神を愛する者」とは、神を信頼する者とも読み変えることができます。自分の罪を認める者、自分の弱さ、限界をわきまえる者、自分を頼らず神を頼る者の心に、イエス・キリストの十字架の福音は知られ、受け入れられると言うのです。
ここで確認したいのは、私たちが救われたのは、決して偶然ではないと言うことです。神様は、本来人間が知ることのできない神の知恵、十字架の福音を知ることができるよう、神様が私たちを備えてくださった。それゆえに、私たちは救われ、神を愛する者とされたのです。私たちの信仰が、人間の知恵に支えられるものではないこと、神の力に支えられていることを確かめ、感謝したいと思います。
こうして、今日の箇所を読み終え、改めて考えたいことがあります。それは、私たちが人生の中で、自分の罪、体や心の弱さ、知恵や力の限界を経験することには、大切な意味がある、と言うことです。
先に話したように、パウロは「あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。」と告白しました。自分の体と心の弱さ、自分の罪、自分の知恵や力の限界を嫌と言うほど経験し、認めていたのです。私たちも同じことを経験してきましたし、これからもすることでしょう。
しかし、そのような時こそ、私たちが真に神様に頼ることを学ぶべき時ではないかと思います。パウロが、神様の励ましに支えられて厳しい現実に留まり、取り組むべきことに取り組んでいったように、私たちも神の力に支えられた歩み、続けてゆきたいと思います。
もう一つは、自分の弱さや限界をわきまえること、へりくだって罪を認めることは、私たちを自慢、高慢から救うと言うことです。コリント教会の分裂、対立の源には、各々が自分の知恵を誇るという問題がありました。知恵は神様の賜物、良いものです。しかし、それを誇って人と争い、人を責めることは、霊的に未熟な証拠です。
パウロは自分の弱さや怖れについて証しました。それは、私たちが自分の弱さや限界をわきまえるように、へりくだって各々が罪を認め、自慢、高慢を戒めることができるように。そんな配慮からではなかったかと思います。
心から神に頼ること。自慢、高慢を戒めること。弱さの中で、私たちには学ぶべき教訓があり、味わうべき恵みがある。このことを覚え、信仰の歩みを続けてゆきたいと思います。
Ⅱコリ 12:10「…私が弱いときにこそ、私は強いからです。」