2019年3月31日日曜日

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31


 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダントを身に着ける女性も少なくありません。
 しかし、主イエスの時代、十字架は人々が格好良く身に着けることのできる飾りではありませんでした。建物の屋根に十字架を立てようと考える人等、いるはずもなかったのです。十字架は死刑の道具、この世で最も恐ろしい死刑台。囚人は生きながらはりつけにされ、吊るされる。生き殺しの道具でした。
 それでは、何故、キリスト教会が十字架を大切にするようになったのか。十字架は私たちにとってどのような意味があるのか、また、私たちは主イエスとどう向き合うべきなのか。4月の第三週イースターの礼拝に至るまで、一緒に考えてゆきたいと思うのです。
 ところで、主イエスの十字架には様々な人が関わっていますが、今日の箇所で、私たちは三種類の人々の姿を見ることになります。第一に、主イエスに刑を宣告したローマの総督ピラト。第二に、思いもかけず十字架を担うことになったクレネ人シモン。最後に、主イエスに心から同情を寄せた都エルサレムの女たちが登場します。
 先ずは、今に至るまで、キリストを十字架につけた張本人として名指しされてきたピラトです。ピラトは、当時最大の世界帝国ローマの権威を帯び、主に都エルサレムの統治を託された総督でした。ローマは様々な国様々な民族を支配していましたが、特に神の民を自負するユダヤ人は独立の気概にみち、度々抵抗したため、ユダヤの国を治めることは至難の業とされたのです。為に、ユダヤの総督には特に有能な人物が任命されました。ピラトも、その例に漏れず、主イエスの裁判に当たり、賢明さを発揮しています。

23:13~15「ピラトは、祭司長たちと議員たち、そして民衆を呼び集め、こう言った。「おまえたちはこの人を、民衆を惑わす者として私のところに連れて来た。私がおまえたちの前で取り調べたところ、おまえたちが訴えているような罪は何も見つからなかった。ヘロデも同様だった。私たちにこの人を送り返して来たのだから。見なさい。この人は死に値することを何もしていない。」

ピラトが、主イエスの裁判に当たるのは二度目のことになります。一度目の裁判の際、ユダヤの宗教家たちに突き出された主イエスを一目見たピラトは、彼らの訴えを根拠なき告発と見抜きます。賢明な総督は「この人は無罪」と判断したのです。
しかし、決断力を欠くピラトは、ユダヤ人の声に押されました。ちょうど都に来ていたガリラヤの領主ヘロデに、この厄介な問題を押し付けたのです。ガリラヤで活躍したイエスなのだから、ガリラヤを統治するヘロデが解決すべき問題と考えたのか。あるいは、これ以上イエスという人物に関わって、ユダヤの有力者を敵に回すのは得策ではない、そんな計算が働いたのでしょう。
ところが、一旦はたらい回しにしたものの、主イエスは再び戻ってきました。そして、二度目の裁判に当たり、イエスと言う人物について、ピラトは入念に取り調べたようです。
そうするとどうでしょう。民衆を惑わした者として訴えられたこの人物が、実は病める者、苦しめる者に仕え、力を尽くしてきたこと、都の宗教家たちとは異なり、聖い心の持ち主であること、王となりローマ帝国を倒そうなどと言う野心等、全く持ち合わせていないことが分かってきました。「このイエスが、どうして民衆を惑わすことなどありえようか。この事件は、宗教家たちの妬みから生まれた冤罪ではないか。」最初は、直感的に無罪と感じ、二度目は取り調べの結果「イエスに罪なし」と判断した。「イエスは危険人物ではない。この人は死に値するようなことは何もしていない。」そう確信したピラトは、釈放を宣言します。

23:16「だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」

気になるのは、「懲らしめたうえで」ということばです。これを加えたのは、何もしないのでは宗教家たちや民衆は満足しない、と計算したからでしょう。無罪と判断したなら、即釈放すればよいはず。それを、「私が懲らしめたうえで」と加えたところに、ピラトの中途半端さ、弱腰が見え隠れします。
その弱腰は、人々に見抜かれていました。「一体、何をごちゃごちゃ言っているのか。早くイエスを殺せ。釈放するならバラバを釈放して、イエスを十字架につけろ。」そんな叫び声が沸き上がったのです。

23:18~21「しかし彼らは一斉に叫んだ。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」バラバは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入れられていた者であった。ピラトはイエスを釈放しようと思って、再び彼らに呼びかけた。しかし彼らは、「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けた。」

ピラトのとりなしは、火に油を注ぐ結果となりました。主イエスを釈放するどころか、既に暴動殺人で刑が確定していた「バラバを赦せ、その代わりにイエスを消してしまえ。それも、十字架につけてしまえ」と言う叫びがピラトを圧倒したのです。
顔色を失ったピラト。無罪なら無罪で釈放すればよかったものを、中途半端にユダヤ人におもねった結果、事は極端な方向に走ってしまいました。それでも、漸く振り絞るような声で、ピラトは三度目の無罪を宣言しますが、結局は民衆の大声に押されてしまうことになります。

23:22~25「ピラトは彼らに三度目に言った。「この人がどんな悪いことをしたというのか。彼には、死に値する罪が何も見つからなかった。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよ強くなっていった。それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願いどおりに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。」

 三度イエスの無罪を公言したピラト。しかし、その弱気、その弱腰を民衆に見抜かれて、バラバを釈放し、主イエスの処刑を許してしまいました。ローマの総督ピラトが、無実の人イエスを十字架につけた張本人として、歴史に汚名を残した瞬間です。法の番人、正義の守護者たる者が、法を曲げ、一個の人間としての志をも放棄してしまったのです。同じような弱さを持つ私たちも、よほど気をつけなければと自戒したいところです。
 次は、主イエスの十字架を肩代わりした男、クレネ人シモンです。

23:26「彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。」

 主イエスは、十字架刑の場所まで突かれ、引かれてゆきます。それも、自分が釘付けにされる十字架を背負わされてです。しかし、主イエスは途中で倒れてしまいました。昨夜から続いた鞭打ちの刑罰、たらい回しの裁判。最早精も根も尽き果てていたからです。道半ばにして主イエスの体は大きく揺れて傾き、沿道を埋め尽くす野次馬の群れも動揺したことでしょう。
 ちょうどその時です。遥々アフリカの地クレネから、過ぎ越しの祭りで賑わう都を一目見たいと、シモンと言う男が、道を通りかかりました。シモンも、故郷への土産話に十字架と言う恐ろしい刑罰を見物するのも悪くないと思ったのでしょうか。野次馬の一員になっていた様です。
 そして、一体どこがローマ兵士の関心を誘ったのかは分かりませんが、大勢いる野次馬の中から、「お前が代わりに十字架をかつげ。」と指名されてしまったのが、シモンです。運の悪さを嘆くシモン。しかし、いくら何でも恐ろしい死刑の道具を担ぐことだけは、勘弁して欲しいと思い、必死に抵抗したのでしょう。マルコの福音書には、「兵士たちは、イエスの十字架を無理やり彼に背負わせた。」とあります。
 せっせと働きコツコツ貯めてきたお金で、一生に一度の都登りを楽しみにしていたシモン。楽しかるべき旅が、泣くに泣けない旅に変わってしまいました。けれども、です。このシモンは、後でこの死刑囚が何者であるかを知ることになります。無理やり担がされた十字架が、自分にとっていかに重要な意味を持つものかを悟り、主イエスを信じるクリスチャンとなったのです。

15:21「兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。彼はアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。」

「アレクサンデルとルフォスの父」とあります。これは、シモンの息子アレクサンデルとルフォスがキリスト教会でよく知られていた証拠です。あのアレクサンデルとルフォスの父親がこのシモンであることを、多くの人が知っていたのです。
また、使徒パウロが書いたローマ人への手紙には、「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私の母によろしく。」(16:13)という挨拶があります。シモンの息子ルポスがローマ教会の教会員であり、ルポスの母つまりシモンの奥さんも同じ教会員で、パウロから信頼されていたことが分かります。わが身の不運を嘆いた男シモンの一家は、シモンも、その妻も、二人の息子もクリスチャンとなると言う恵みに預かっていたのです。
そして、最後は主イエスに同情を示した女たちの登場です。今日聖地旅行でエルサレムを訪れる人々が、必ず訪れる名所の一つが「ヴィア・ドロローサ」、悲しみの道と呼ばれる狭い道でしょう。それこそが、二千年前主イエスが歩かれた道でした。
シモンに十字架の木を肩代わりしてもらいながら、形場へと向かう道の途中。そこで、主イエスが女たちにもらしたことばが記録しています。

23:27~31「民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った。イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来るのですから。そのとき、人々は山々に向かって『私たちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かって『私たちをおおえ』と言い始めます。生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。」

都の婦人たちの中には、あわれみの心を持つ者がいて、恐ろしい十字架につけられる主イエス、それもバラバの身代わりに死ぬ運命を背負った主イエスのことを可哀そうに思い、心から同情したのでしょう。実際、当時死刑囚の苦しみを和らげてあげたいと思い、麻酔薬を差し出す慈善婦人会もありました。
もし、私がこの場にいたら、自分のために涙を流し、同情してくれる女性たちに甘え、神に与えられた使命を前に、頽れてしまう気がします。
しかし、主イエスは頽れることなく、十字架に命をささげる尊い使命にしっかりと心を向けておられました。ですから、女たちの方を向いて、「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。」と言われたのです。注意してください。主イエスが言われたのは、「もっとわたしのために泣いてくれ。」ではなかったのです。むしろ逆で、「わたしのために泣くな。」でした。そして、婦人たちに顔を向けると「むしろ、自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。」と語られたのです。
この後、神に背いたエルサレムの都は、ローマ軍の猛攻撃に耐えられず、崩壊することになります。主イエスは、この来るべき神のさばきを思い、主イエスは婦人たちのことを心配し、警告されたのです。
その日は、人々が皆、足手まといになる子どもがいない者の方が幸いだと感じる程悲惨な日となる。山々が倒れかかること即ち大地震の方がましだと感じる程の苦しみの日となる。生木の様に強い男の私が酷い目に会うのだから、枯木である弱い女性のあなたたちは、その時どの様な目に会うことか。主イエスに同情していた女性たちは、むしろ、主イエスに同情されていたのです。この期に及んでも、ご自分のことより、隣人のこと、弱き者のために心を尽くす主イエスの姿を、私たちはここに見ることができるのです。
最後に、今日登場した人々を確認しておきたいと思います。有能で賢明さを持ち合わせていたにも関わらず、人々の声に流され、自分の信念を貫くことのできなかった人、優柔不断で、弱腰の人ピラトがいました。不図したことがキッカケで、夢にも思っていなかったクリスチャンになる、家族も皆同じ信仰に生きる者となる。そんな恵みに預かった人シモンがいました。そして、主イエスのことを心配していたつもりだったのに、むしろ、主イエスから心配され、祈られていた婦人たちもいました。
三者三様、各々主イエスに対する関わり方は異なりますが、どの人の姿にも私たちの人生が重なって見えてきます。私たちにもピラトの弱さがあります。しかし、願わくは、主イエスの恵みに支えられて、人に流されずに信念を貫き、正義を実践する者になりたいと思います。
私たちもシモンの様に、キリストの十字架など自分に何の関係もないと思っていました。しかし、不図したきっかけで、主イエスに導かれ、十字架の意味を知る光栄に預かったことを、心から感謝したいのです。また、私たちも、都の女たちの様に、主イエスを愛する私たちの愛よりも、私たちを愛する主イエスの愛がはるかに深いことを喜びつつ、信仰の歩みを進めてゆきたいと思うのです。

コリント第一1:18「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」

2019年3月24日日曜日

レント「キリストの受難(1)~山を下る~」マタイ17:1~13


約二千年前、主イエスが十字架で死に三日後に復活されました。神の一人子が、罪人のために死なれ、死に勝利された。人類史上、最大の事件。私たちにとって最も重要な出来事。キリストの死と復活です。キリストを信じる者にとって、イエス様の死と復活が、どのような意味があるのか。私の人生にどのように関係しているのか。いつでも覚えておくべきこと、意識すべきことですが、特にイースターを控えたこの時期、イエス様の受難に目を向けたいと思います。

 イエス様が磔になり死なれたのは、およそ三十三歳のこと。公に救い主の活動を開始した期間は約三年です。つまりイエス様は生まれてから三十年、人生の殆どの期間を家族に仕え、大工として地域に仕えました。世界の造り主が人となられたというのも驚きですが、人としての歩みの殆どを田舎の大工として過ごされたというのも驚きです。家族に仕え、隣人に、地域に仕えることは大事なことでした。

 公に救い主の活動をされた間、具体的にどのようなことをされたのか。四つの福音書を通して私たちは知ることが出来ます。弟子たちを集め、奇跡を行い、説教を語る。言葉においても、行いにおいても、ご自身が約束の救い主であることを繰り返し示されました。イエス様の為されたこと、イエス様の話されたことは、どれも重要なものですが、およそ三年間の活動を通して見ますと、いくつか重要な出来事。転換点となる場面があります。

 そのうちの一つが、ピリポ・カイサリアにおけるペテロの告白の場面。マタイの福音書では十六章に記録されています。


 マタイ16章15節~16節「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』シモン・ペテロが答えた。『あなたは生ける神の子キリストです。』


イエス様が私を誰だと言うかと問い、ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです。」と答える。麗しく、美しく、神聖な告白。主イエスが、この告白をどれだけ聞きたいと思われていたのか。どれ程喜ばれたのか。

ここまで共に過ごしてきた弟子が、自分のことを明確に「神の子キリスト」であると認識し告白出来た。そのため、ここからは、ご自身が約束の救い主であることを示すだけでなく、その約束の救い主は何をするのか、どうなるのかを明確に示すようになります。このペテロの告白を契機に、イエス様は十字架への歩みを明確にされるのです。


 マタイ16章21節「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。


 これまで、ご自分が約束の救い主、キリストであることは示してこられた。ここから、キリストである私は、殺され、よみがえることを示されるようになる。「神の子キリスト」という栄光に満ちた存在が、苦しみを受け、死ななければならないと明言されるようになります。イエス様の歩みの中でも、重要な転換点となる場面。今の私たちは、その意味を知っていますが、当時の弟子たちは、繰り返し教えられてもなかなか理解出来なかったキリスト理解です。

 今日、私たちが注目するのは、このピリポ・カイサリアでの出来事から六日後のこと。山上の変貌と言われる場面と、山から下りるイエス様と弟子たちの姿です。神の子キリストであるイエス様、栄光に満ちた方が、罪人を救うために苦しみを受け、死ぬために歩みを進めていく姿を見ていきたいと思います。


 マタイ17章1節「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。


 キリストであるからこそ、苦しみ、殺されることを明確にされるようになってから六日後。イエス様は三人の弟子を連れて高い山に登られます。ピリポ・カイサリアから北へ約二十キロ。二千八百メートル級のヘルモン山と考えられます。

イエス様は、特別な場面で、十二弟子の中から三人を選ばれますが、ここでもいつものペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人とともに山を登ります。同じ場面が記されている他の福音書では、「祈るため」であったとあります。救い主としての歩みの中でも、重要な転換点を迎えた直後。高い山の上で限られた弟子たちとともに祈りに集中されるイエス。

 静かな祈りの場面。しかし、弟子たちにとって仰天の場面となります。


 マタイ17章2節~3節「すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。


 祈られていたイエス様の姿が変わっていく。顔は輝き、衣まで輝き出す。ただごとではない。夢か、幻か。しかし、これこそ本当のイエス様の姿。生ける神の子キリストとしての、本来の姿でしょう。人となられた神である方の栄光ある姿。やがて私たちも天で目の当たりにする栄光です。

 さらに弟子たちは、主イエスとともに、二人の人がいることに気付きます。見ただけで、それが誰かは分からないでしょう。イエス様が口にされる呼び名によって、弟子たちにも、それがモーセとエリヤであると分かる。旧約の英雄的信仰者までも現れて、いよいよ呆然となる場面。

栄光の姿に変わられたイエス様のもとに現れた二人。旧約聖書という書物を、人物で表現するとなれば誰かと言えば、モーセとエリヤでしょう。律法の代表者モーセと、預言者の代表者エリヤが現れて、主イエスと語り合っていたというのです。一体何について語り合っていたのか。気になるところ、知りたいところ。それが実にありがたいことに、同じ場面を描くルカには、次のように記されています。


ルカ9章30節~31節「そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。


 栄光の姿で、旧約聖書を代表する者たちと何について語り合っていたのか。それは、エルサレムで遂げようとしておられる最後について。つまり、十字架の死について。生ける神の子キリストとしての本来の姿を示しつつ、ご自身の最後、「死」について話されていた。つまり、これもまた、キリストであるからこそ、苦しみ、殺されることを明確されている場面の一つだったのです。

 本来、死とは無縁の方。神である方が、ご自身の死について話されている。厳粛な場面。しかしここに、的外れな声が響きます。


 マタイ17書4節「そこでペテロがイエスに言った。『主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。』


 「栄光あるイエス様の姿。何て素晴らしい。それに、モーセさんとエリヤさんもお揃いで。この場所にいられることは、どれ程素晴らしいことか。どうでしょうか。世俗から離れたこの山で、ともに暮らすことにしませんか。幕屋なら私が造ります。私もご一緒したいのですが。」

感極まるペテロの声が響きます。悪意無く、良かれと思って言ったことでしょう。しかし、的外れな発言。神の子キリストであるイエス様は、ご自身、死ななければならないと言っているのに、この栄光ある姿のままでいて欲しいと願う。イエス様が、山を下り、十字架へ進まなかったら。キリストが罪人のために死ななかったら。誰一人、罪から救い出されることはなくなるのです。願ったことがそのまま実現すると、自分を含め、誰も救い出されないことを願ってしまっている。

 六日前にイエス様が語られたこと。また、まさに目の前で栄光に輝くイエス様が、ご自分の死について話されていることの意味を、理解出来ないペテロの姿。

 このペテロに対して、父なる神様が語り掛けることになります。


 マタイ17章5節~8節「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け』という声がした。弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。するとイエスが近づいて彼らに触れ、『起きなさい。恐れることはない』と言われた。彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。


 話途中のペテロに、父なる神様が声をかけられる。「彼の言うことを聞きなさい」と。約束の救い主は苦しみ、死ぬと言われていること。キリストであるから、死ななければならないと言われていること。それが誰のためで、何のためなのか。よく聞くように。あなたの考える救い主像をイエスに押し付けるのではなく、イエス様が語られている救い主の姿を受け止めるように。直接語られても、目の前で話されても、キリストの死を理解出来ない弟子たちに、何と父なる神様までもが、教えようとされている。改めて、主イエスの死が何のためなのか、誰のためなのか考えることが重要であることを教えられます。

 ところで、父なる神様はその一人子であるイエスについて「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と言われました。これは、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、父なる神様が言われた言葉と同じです。(マタイ3章17節)イエス様は、バプテスマのヨハネの洗礼をもって、公に救い主の活動を開始されました。つまり、救い主の歩みの転換点となるピリポ・カイサリアから六日後、この山上にて、父なる神様がイエス様を後押しされる場面ともなっているのです。

 弟子たちは、イエス様こそ約束の救い主であると理解するようになりました。生ける神の子キリストである、と。しかし、その本質がどれ程栄光に満ちたものか。神の子キリストという方が、どれ程のお方であるのか、分かっていなかった。その上、その栄光に満ちたお方が苦しみ、死ななければならないということも分からなかった。それが私の罪の身代わりに死なれるということも分からなかった。

 神である方。罪と無縁の方が、死ななければならない。この時、イエス様が味わわれている重さと、弟子たちの理解には大きな隔たりがあります。ペテロのために、弟子たちのために、罪人のために苦しみを受けるのに、ペテロも弟子たちも、その意味を理解していない。それでも、イエス様は栄光の姿に留まるのではなく、山を下りていきます。十字架への道を進んで行かれるのです。


 マタイ17章9節「彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。『あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。』


 この出来事は、選ばれた三人以外には秘密とされました。救い主が死ななければならないということが、理解されていない状況で、栄光の姿に変わったことだけ伝わることのないようにとの配慮です。

 しかし、この言葉を受けて、弟子たちに疑問が出てきます。


 マタイ17章10節「すると、弟子たちはイエスに尋ねた。『そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。』


 「イエス様、あなたが約束の救い主であることは信じています。そして、律法学者たちは、約束の救い主が現れる前に、預言者エリヤが現れると言っています。聖書にある通りなので、そうなるのでしょう。そして先ほど、エリヤが現れました。これはまさに、あなたが約束の救い主であることを、ますます証明する出来事ではないでしょうか。そうであれば、これは言い広めるべきことです。それなのに、秘密にせよとは、どういうことでしょうか。エリヤが来るというのは、別な意味があるのでしょうか。」との問い。真っ当な質問です。

 この問いに対して、イエス様が答えます。聖書が伝えていたエリヤというのは、先ほど現れたエリヤのことではなく、その約束は既に成就していること。それに加えて、恐ろしいことを言われます。


マタイ17章11節~13節「イエスは答えられた。『エリヤが来て、すべてを立て直します。しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。』そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。


 聖書が告げていた約束の救い主の前に来るエリヤ。それは、バプテスマのヨハネのこと。バプテスマのヨハネにおいて、その約束は成就していると言われます。イエス様は直接的に名前を出していませんが、弟子たちもそれがバプテスマのヨハネのことだと分かりました。そして、ここで恐ろしいことを言われています。約束の救い主の前に現れるエリヤ。そのヨハネに対して、人々は何をしたのか。好き勝手なことをしたと言います。好き勝手なことをした。

 好き勝手なこととは、何のことでしょうか。真っ先に思い出されるのは、領主ヘロデがしたことです。(マタイ14章)ヘロデが自分の兄弟の妻ヘロディアを奪ったことについて、ヨハネが糾弾したため、ヘロデはヨハネを捕え牢に入れました。自分の悪を指摘されたら、牢に入れるという好き勝手。さらに、そのヘロディアの娘の踊りを見た時、求めるものは何でも与えると約束し、ヨハネの首が欲しいと言われると(このことから、ヘロディアもヨハネを嫌っていたことが分かります)、心を痛めながらも、面子を保つためにヨハネを殺します。ヨハネの命よりも、己の保身、己の面子を優先させるという好き勝手。

 また祭司長、律法学者たちも、バプテスマのヨハネについて、どこから来たのか。天からか、人からかと問われると、「分からない」と答えます。(マタイ21章)よく考えて分からないと答えたのではなく、自分たちの保身のために分からないと言う。祭司長、律法学者という、これ以上ないほど聖書に精通していた者たち。しかし、ヨハネに対して、その知識を用いませんでした。聖書が教えていることは何か。神様が願われていることは何かではなく、私が判断したいようにするという好き勝手。

無茶苦茶だということです。何が正しい、何が良いことかは関係ない。何が聖書的か、何が神様の喜ばれることか関係ない。自分のやりたいようにするという好き勝手。人々は、バプテスマのヨハネに対して、好き勝手なことをした。ひどいこと、恐ろしいこと。しかし、イエス様は更に恐ろしいことを言われています。人の子も同じように苦しみを受ける。つまり、イエス様も、同じように好き勝手なことをされると言っているのです。

 苦しみを受け、死ぬために山を下りているキリスト。その決意のほどを、私たちは真剣に受け止めたいと思います。それも、救い主としての目的を全く理解しない者たちのために。自分に対して、好き勝手なことをする者たちのために、死のうとされる。これから死ぬというのに、本来の目的と全く違う理由で、それも好き勝手なことをされて殺されるという苦しみを、確認したいと思います。身代わりの死でも十分な苦しみ、しかし、その意味を理解せず嘲笑の中で死にいく苦しみとは、どのようなものなのか。

 山を下りたところにある苦しみは、このような苦しみでした。しかし、イエス様は山を下りられた。栄光の姿に留まるのではなく、罪人を救うために山を下りられる。私を救うために、山を下り十字架へと進まれた。理解されればその者のために死ぬというのではない。全く理解しない、好き勝手なことをする。それでも、罪人を救うという救い主。


 私たちも、自分勝手に生きていた者。好き勝手に生きていた者。キリスト苦しみや死の意味など全く関係ないものとして生きていた者。しかし、その私のために主イエスが死なれたこと、復活されたことを信じて、キリスト者となったのです。

 それでは、今の私たちは、どれだけ真剣に、イエス様の苦しみの意味、十字架の死の意味を意識し、考え生きているでしょうか。好き勝手に生きていたところから、キリストを通して神の子とされた。その私たちが、もう一度、好き勝手に生きていないか。何としても、私を救おうとされたイエス様の決意、その愛を無視して、生きていないか。今日のイエス様の姿を前に、今一度再確認したいと思います。

 不条理な死であろうとも、父なる神様の御心に従われた救い主。好き勝手なことをする者たちのために命を捨てる救い主。このイエス様の命を頂いた者として、自分はどのように生きるのか。よくよく考えながら、イースターへと歩みを進めていきたいと思います。

2019年3月17日日曜日

一書説教(51)「コロサイ書~愛されている者として~」コロサイ3:12~17


「キリスト者の成熟」とか「神の子としての成長」と聞いて、皆様はそれがどのようなものだと思うでしょうか。自分自身がキリストを信じる者として成熟していくこと、神の民として成長していくことに興味があるでしょうか。信仰の仲間の成熟や成長に、心を向けることはあるでしょうか。聖書を開きますと、キリストを信じる者は、信仰者としての成熟、成長に心を配るように。仲間同士で互いに祈り合い、励まし合うように、繰り返し教えられていることに気が付きます。

一般的に、何を願うか、何を求めるかに、その人の本性が現れると言われますが、それでは過ぎし一週間、私たちは何を願い、何を求めて生きてきたでしょうか。自分の祈りは、何が中心でしょうか。その願いの中に、キリスト者としての成熟、神の子としての成長はあるでしょうか。


 聖書六十六巻のうち、一つの書に向き合う一書説教。待降節、年末年始を経て、四か月ぶりとなりました。通算、五十一回目。新約篇の十二回目。今日はコロサイ人への手紙に注目していきます。

パウロの晩年、ローマで獄中生活をしている時に記されたもの。教会宛ての手紙としては、最後に記された三つの書のうちの一つ。神学者、宣教師、牧会者であるパウロが、歳を重ね、経験や知識が蓄えられ、思想が深まり記したもの。言葉は、準備をすればする程、短くなる。練られたものは鋭く短くなりますが、パウロの思いが圧縮されて濃厚な香りを放つ書となっています。

果たして、自分にその奥行きを味わうことが出来るのかと気後れする思いもありますが、祈りつつ聖書を読み進める歩みを全うしていきたいと思います。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 パウロは聖書に収録されているだけでも多くの手紙を記していますが、そのうち、手紙を書く段階で直接的に関わりのない人たちに宛てて書かれたのは僅か二つ。一つがローマ人への手紙。これからローマに行くことを想定して、自分自身のこと、自分の信じていることを知ってもらうために記されたもの。もう一つが、コロサイ人への手紙です。それでは、なぜコロサイの教会にパウロは手紙を記したのでしょうか。

 コロサイというのは、アジアにある都市。パウロがアジア圏で伝道した様は、使徒の働きに出て来ますが、コロサイで伝道したとは記録されていません。しかし、エペソで伝道していた際、次のように記録されています。


 使徒19章8節~10節「パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、人々を説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心を頑なにして聞き入れず、会衆の前でこの道のことを悪く言ったので、パウロは彼らから離れ、弟子たちも退かせて、毎日ティラノの講堂で論じた。これが二年続いたので、アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた。


 ラジオもテレビもインターネットもない時代。パウロの伝道方法は、自分自身はその地方の主要都市にて教会を建て上げ、そこに集まった人々が近隣へ伝えていくというものでした。(聖書には、そのようにパウロが考えていたと記されていませんが、実際にパウロが行った町々を見るとそのような意図があったと考えられます。)エペソで足掛け三年の伝道、教会形成。その結果、アジア圏で多くの人が神の言葉を聞くことになったというのです。コロサイは、エペソから約160キロ離れた場所。パウロが行っていないとしたら、実際には誰が行ったのか。この手紙の中に次のような言葉があります。


 コロサイ1章7節~8節「そういうものとして、あなたがたは私たちの同労のしもべ、愛するエパフラスから福音を学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、御霊によるあなたがたの愛を、私たちに知らせてくれた人です。


 エパフラス。詳しい情報は分かりませんが、パウロが愛し、同労者と考えている人物。このエパフラスが、中心となってコロサイでの伝道、教会形成がなされたようです。また、「あなたがたの愛を、私たちに知らせてくれた」とありますので、コロサイ教会の様子を、ローマで獄中生活をしているパウロのもとに知らせたのも、エパフラスということが分かります。パウロからすれば、コロサイの教会は、伝道者の仲間が建て上げた教会。

 さらに、次のようにも記されています。


 コロサイ4章13節、16節「私はエパフラスのために証言します。彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスにいる人々のため、たいへん苦労しています。この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキア人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたも、ラオディキアから回って来る手紙を読んでください。


 ラオディキアとヒエラポリスは、コロサイ近隣にある都市で、そこにも教会があり、エパフラスはその近隣の教会のためにも労していた人。この手紙はコロサイの教会宛てですが、近隣の教会で回覧するように言われています。

 想像出来ますでしょうか。ローマで獄中生活をしているパウロのところに、福音を宣べ伝え、教会を建て上げる情熱を持った同労者であるエパフラスが来ます。コロサイの教会の様子、ラオディキアやヒエラポリスの様子を聞き、パウロは大いに励まされます。(コロサイ1章3節~4節)そこで、自分としても何とか、コロサイの教会や近隣の教会を励ましたい。応援したい。支えたいと思い、記したのがこの手紙。自分が直接的に関わりのない人たちに対しても、その信仰生活を何とか励ましたいと思って書かれた書。この情熱について、パウロ自身が次のように記しています。


 コロサイ1章28節~2章1節「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。私が、あなたがたやラオディキアの人たちのために、そのほか私と直接顔を合わせたことがない人たちのために、どんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。


 全ての人がキリストにあって成熟した者となって欲しい。そのために必死に労している。直接顔を会わせたことがない人のためにもそうであると記す。晩年のパウロが、どこに力を注いでいたのか分かる、注目すべき言葉です。

 このようなパウロの情熱を前にしますと、果たして自分はどれだけ真剣に、「キリスト者の成熟」とか「神の子としての成長」に取り組んできたか。四日市キリスト教会の信仰の仲間の成熟、成長のために、どれだけ心を配ってきたか。いや、パウロは直接顔を合わせたことがない人にまで思いを馳せています。日本長老教会の、まだ会ったことのない人の成熟、成長のために。世界の広がる神の民の成熟、成長を、どれだけ願ってきたのか。考えさせられます。キリスト教信仰というのは、キリストを救い主と信じて終わりではない。信じた者は皆で励まし合い、祈り合いながら、成熟、成長を目指すのだと教えられるのです。


 コロサイ書は信仰者の成熟、成長に力点が置かれた書だとして、それでは具体的には何が記されているのでしょうか。書き始めの挨拶と祈りが終わり、真っ先に記されたのは、御子について。イエスキリストがどのようなお方か記されます。


 コロサイ1章15節~20節「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。


 パウロによるキリスト論として有名な箇所。パウロが記した手紙の中でも、特に優れたキリストについての論述と言われます。練りに練られ、圧縮され、簡潔にまとめられたキリスト論。

 キリストは神のかたちであり、全てのものより先に存在している。全てのものは主イエスによって造られ、主イエスのために造られ、主イエスによって成り立っている。つまり、イエスキリストが神であり創造主であり支配者であるということ。このイエスが、教会のかしらであり、死に打ち勝った方であり、この方によって罪の赦しがある。


 ところで、信仰者の成熟、成長を願うパウロが、何故、私たちのすべきことではなく、キリストのことから書き始めたのでしょうか。それは、キリストを信じる者の成熟、成長は、第一にはキリストがして下さることと確認するためです。


 コロサイ1章13節「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。


 人がキリストを信じる時、何が起こるのかと言えば、キリストの支配に入るということでした。世界を治め、教会のかしらであり、死に勝利し、赦しをもたらす方の支配に自分自身を委ねる者となった。この点が、信仰者の成熟、成長を考える上で、極めて重要なところです。

 自分の人生は自分の力で何とかなると思って生きてきた私たち。歳を重ねるにつれ、子どものような我儘は減り、社会的に、一般道徳的には成熟した者となれるかもしれません。表面的には取り繕うことが出来るようになるかもしれません。努力すれば、道徳的に、社会的に、成熟する者になれるかもしれません。(自分自身の姿を見ると、それすら出来ないことも、多々あるように思いますが。)

しかし、本質的な問題。聖書の教える罪の問題に対して、私たちは無力です。キリストに似る者となるとか、神の子として成長するということは、私たちが努力すれば果たせるものではない。死に打ち勝たれた方の命がなければ、罪の問題は解決しない。世界を造り、支配し、成り立たせている方の力がなければ、私たちが変わることは出来ないのです。


コロサイ書の冒頭において、パウロがこれだけ力を入れてキリストについて記したということは、信仰者の成熟を願う者にとって、自分がキリストの支配にいることを絶えず覚えていることが重要であることを意味します。

 キリストを信じる者として生きているのに、繰り返し罪を犯してしまう。愛すべき人を愛せない。怒りや憎しみを手放せない。成熟どころか衰退の一途をたどっているように感じられる。(パウロは最晩年になり自分を罪人の頭と呼びました。信仰者の成熟の一つの姿には、自分の罪深さがより分かるというものもあります。)いかがでしょうか。皆さまは、自分自身の未熟さに、ほとほと嫌気がさした。生きる気力が削がれたということはあるでしょうか。そうだとしても、希望を失うことはないというのが、このパウロの筆です。この世界を成り立たせている力、死に勝る力、全ての罪を赦す力で、イエス様は私を変えて下さる。私を成熟へと導いて下さる。そのように信じるように。その希望を持つようにと教えられます。この確信に立てる人は、本当に幸いだろうと思います。


 信仰者の成熟、成長を目指す上で、イエス様が私を変えて下さることを信じることが大事。その希望を持って生きることが大事。それは分かりました。そうだとして、後は何もしなくて良いのか。イエス様がされるので、私は何も知りませんというので良いのか。いや、イエス様が私を変えて下さると信じる上で、私たちも取り組むべきことがあるとパウロは筆を進めます。

 方向性は大きく二つ。罪、悪から離れること、善、良いことに取り組むことでした。


コロサイ3章5節~8節「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。


 キリストを信じる者、キリストの支配にある者が成熟を目指す際に取り組むべきこと。一つは罪、悪から離れることでした。それも、「殺してしまいなさい」と非常に強い言葉。罪、悪に対して、徹底的な姿勢で臨むように勧められます。

イエス様が私を変えて下さると希望を持つ者。そこに信頼を置く者は、だから自分は何もしないというのではない。むしろ、徹底的に戦うようにと言われます。果たして、私たちはどれだけ真剣に、欲を殺し、怒りや悪意を捨てることを、取り組んでいるでしょうか。

 もう一つ、取り組むように勧められているのは、善に取り組むことでした。


コロサイ3章12節~17節「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。


キリストの支配に入った者は、表面的に変わること、道徳的人間になることを目指すのではなく、神の子として相応しい姿、キリストに似る者となることを徹底的に追及することが出来る。自分を変えることが出来ないところから、イエス様が変えて下さるから私も自分を変えることに取り組むことが出来る。

 その確信に立って、この言葉を読むと、希望が湧いてきます。神様に愛された者として、隣人を愛する。練りに練られた言葉としてまとめられていますが、これが夢物語ではなく、将来の私の姿であり、教会の姿となる。それを願って良い、目指して良い。本当にここに示された姿を目指すとなると、私たちの歩みはどうなるでしょうか。具体的に、何に取り組むのか、皆で考えたいと思います。


 以上、「キリスト者の成熟」とか「神の子としての成長」という視点でコロサイ書を見てきました。全四章の小さな書。是非とも、実際に手にとって、濃厚に圧縮されたパウロの熱意を味わって頂きたいと思います。

 キリストを信じた私たちは、信じて終わりなのではない。自分自身も、そしてお互いの成熟、成長を目指す者であるということ。キリストを信じた私たちは、キリストの支配に入れられたこと。つまり、成熟や成長ということは、イエス様が中心となってして下さること。そのイエス様を信頼する者として、私たちも自分の出来る精いっぱいの取り組み、悪や罪から離れ、聖さを全うすることに取り組むこと。この福音を覚えて、一週間の歩みに乗り出したいと思います。


2019年3月10日日曜日

Ⅰコリント(18)「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てる」Ⅰコリント8:1~13


私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきましたコリント人への手紙第一。紀元一世紀半ば、使徒パウロによって書かれた手紙は、様々な点で私たちを驚かせるものでした。これが、本当にキリスト教会かと思うような仲間割れ。兄弟同士のトラブルを教会内で解決できず、この世の裁判所に持ち出して黒白をつけようとする、浅墓な行動。そうかと思えば、自分の母と通じてさばかれた者、遊女の元に通いながら、これを恥じぬ者など、目を覆いたくなるような不品行が横行していました。

さらに、割礼を受けた自分を恥じる者がいるかと思えば、それを嘲る者がいる。奴隷の兄弟を見下す自由人がいるかと思えば、独身者ややもめを軽視する既婚者もいる。と言う風に、この世の価値観がそのまま持ち込まれたため、コリントでは、能力や文化、社会的身分や慣習等、様々な点において、人の上下、優劣が論じられ、少数派にとってはまことに肩身が狭く、居づらい教会となっていたと思われます。

それに対し、かって、自分が精魂込めて建て上げた教会が、かくも悲惨な状態に後退してしまったことに心痛めた使徒パウロは、コリントから送られて来た質問状に、一つ一つ応えてゆきます。パウロの勧めは、驕る者には戒めであり叱責でしたが、自らを恥じる者、弱き立場に置かれた者には慰めであり励ましであること、私たちは確認してきました。

しかし、最初は驚きをもって見ていたコリント教会の問題も、よく読み進めてゆくうちに、気がつくことがあります。それは、彼らコリント教会の抱えていた問題は、決して他人ごとではない、今の私たちたちにも通じる問題であると言うことです。

自らを誇って譲らず、対立する。裁判に訴えるまではしないとしても、自分の権利は手放すまいと、相手をやり込める。いつも性的賜物を正しく管理してきたかと問われれば、はなはだ心もとない自分。文化の違い、社会的立場の違い、結婚か独身か等、神の目から見れば枝葉のことに捕らわれ、いつしか、どの様な立場、境遇にあろうとも、主に仕えることが人生の最大事であることを見失っていた自分。

私たちは、コリント人への手紙を読み進めるうちに、その様な自分の姿を見ることができますし、見るべきでしょう。そして、コリント人に対する使徒の勧めの中に、いかに自らの考え方や行動を修正すべきかを教えられるのです。

さて、今朝の箇所ですが、先に性の賜物と男女の関係、結婚が是か独身が是かと言う問題について語り終えたパウロは、次の質問状を取り上げています。それは、偶像にささげた肉を食べてよいのか否かと言う問題でした。


8:1「次に、偶像に献げた肉についてですが、「私たちはみな知識を持っている」ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」


今日の日本と同様、ギリシャの町には、偶像が溢れていました。太陽、月や星、山や川、海、木や草から動物に至るまで、すべてを神々の現れとみる自然宗教は日本にとどまりません。当時のギリシャにも、天の神、太陽の神に月の神、大地の神に海の神、雷の神から森の神に至るまで、おびただしい神々が存在すると信じられていました。こうした多神教が人々の生活を支配する社会に、聖書の神、唯一の神を信仰する者が立った場合、様々な軋轢が生まれることは、当然のことです。

そして、古代の宗教の中心は、神々に対するささげものであり、その後に続く祝宴でした。町毎に行われる大切な会合、職業組合の集会など、社会生活に欠かせない交際、話し合いは偶像の宮で行われるのが習わしだったのです。そうした集まりを避けることは、社会の隣人との交際を絶つこと、仕事を失うことにもなりかねないわけで、クリスチャンには悩みの種でした。また、町の市場で売られている肉も、その多くは一旦偶像の神々にささげられたものでしたから、人の家に招かれ、食卓に出された肉を食べることに後ろめたさを感じる兄弟姉妹もいたようです。

この様な中、コリント教会内で、「偶像にささげた肉」を食べてよいのか、否かと言う問題が起こります。意見は二つに割れました。ある人たちは、その様な肉を食べることは偶像を認めることになるとして、反対します。これに対し、知的であることを誇る人々は、真の神は唯一であって、本来偶像はなんでもないものであり、その何でもないものにささげられた肉も何でもないものである訳で、食べる事には何の問題もなしと主張しました。彼らは偶像の宮でも、友人、知人の家に招待された場合でも、自宅でも、躊躇うことなく肉を食べていたらしいのです。

この様に、町の人々との接触によって、浮かび上がった問題を巡り、対立は深まりました。「食べるべきではない」とする禁食派と、「食べても構わない」とする進歩派の争いです。どうもコリント教会では、「私たちはみな知識を持っている」を合言葉にする進歩派が優勢、禁食派は劣勢で、少数であったらしく見えます。

まず、パウロは、自ら知識を誇る人々の欠点を突きました。「知識は人を高ぶらせ、愛は人を養う」として、知識を愛の上に置くことの危険を語ったのです。もとより、知識は人生に必要なもの、知識向上に努力することは大切です。しかし、それが人々への配慮と言う愛を捨てて、知識のみを重んじるなら本末転倒でした。知識は愛の反対ではなく、本来よりよく人を愛することを助けるものだったからです。続くは、知識を偏重する者への、痛烈な一言でした。


8:2、3「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。」


 「自分は何かを知っていると思う人」とは、知識を誇る進歩派のことです。「その人は知るべき程のこと、つまり神を知らない」と言うのは、「神のことなら自分たちが一番知っている」と自負していた彼らへの皮肉でしょう。キリストを信じてクリスチャンとなっても、自らの正しさを確信し、隣人への愛の配慮なしに物事を運ぶような人は、神を知らない者、神の前には愚か者ではないかと戒めています。むしろ、隣人への配慮を尽くすと言う愛を実践する人こそ、神に知られている、愛されていると、使徒は教えていました。

以上、愛は知識の上に立つこと、知識は愛のために役立ってこそ意味があることを説いたパウロは、いよいよ本題に入ります。


8:4~6「さて、偶像に献げた肉を食べることについてですが、「世の偶像の神は実際には存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」ことを私たちは知っています。というのは、多くの神々や多くの主があるとされているように、たとえ、神々と呼ばれるものが天にも地にもあったとしても、

私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、この神からすべてのものは発し、この神に私たちは至るからです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、この主によってすべてのものは存在し、この主によって私たちも存在するからです。」


 ここで、パウロは「偶像にささげた肉を食べることに何の問題もなし」と主張する人々の正しさを認めています。「私も偶像の神は実際に存在しないこと、実際に存在するのは父なる神のみ、主イエス・キリストのみであること。この世界のすべてのものも、私たち人間も、この唯一の神によって創造され、支えられていると言うあなたがたの考えに同意している。この考えに異論を挟むつもりはない。」そうパウロは言うのです。

 そして、恐らく使徒は、彼らの考え方の正しさそれ自体は認めることで、迷信的に偶像を恐れる人々が、自らの知識をもう一度検討し、修正するよう求めているのでしょう。

 しかし、より重大な問題は、その正しい知識を盾に、禁食派の兄弟姉妹たちへの配慮を欠いた行動をとる進歩派の方でした。


 8:7~9「しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんできたため、偶像に献げられた肉として食べて、その弱い良心が汚されてしまいます。しかし、私たちを神の御前に立たせるのは食物ではありません。食べなくても損にならないし、食べても得になりません。ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。」


 私たちには、各々長年の間に染み付いた感じ方、考え方の習慣というものがあります。コリント教会の中には、偶像の神々など実際には存在しないという知識に、まだ確信を持てない人々がいました。彼らは、長年の間なじんできた偶像の神々への恐れ、迷信を、未だ心の中から吹っ切ることができなかったのです。

 これに対し、自らの知識の正しさに立つ人々は、この様な兄弟姉妹を未熟者と軽蔑しました。肉を食べる自分達こそ神により近い者、肉を食べない禁食派の人々は、その点において損をしていると考え、嘲りました。自分たちの行動を正しい権利とし、禁食派の兄弟たちの心を踏みにじったのです。この様な傍若無人な言動こそ、パウロが戒めるものでした。

 「あなたが、この世界でただ一人住んでいると言うのなら、肉を食べようが食べまいが自由でしょう。しかし、あなたにはともに生活する兄弟がいます。自分の知識、自分の良心だけでなく、兄弟の知識、兄弟の良心のことにも配慮して、どう行動するかを考えるべきではないですか。」パウロは、自分の正しさを剣にして隣人を切り捨てる者たちの行動に、ブレーキをかけたのです。

 さらに、使徒は、彼らの言動が弱い兄弟に対する罪であるばかりか、主イエスに対する罪であると踏み込んでゆきます。


 8:10~12「知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。つまり、 その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。」


 ここに、己を正しいと考え、自らのふるまいを顧みない者たちへの怒りが、爆発しています。隣人の良心を土足で踏みつけるような言動、弱い兄弟に対する配慮なき振る舞いが、厳しく戒められたのです。

 当時は、偶像の宮において町の人々の重要な会合や職業組合などの集まりが行われていました。その様な場で、偶像にささげた肉がふるまわれ、出席者たちはこれを寝そべった状態でともに食べる風習があったとされます。

 その様な席上で、進歩派の人々が大胆に肉を頬張る姿に後押しされて、未だ悪霊への恐れから解放されていない弱い人々は、「これが偶像崇拝にならないだろうか」と疑いながらも肉を食べてしまう。その後、彼らが自らの行動に罪責感を覚え、苦しむ。救いの確信を失う。教会から離れてしまう。恐らく、そんな悲しむべき出来事が、実際にあったのでしょう。

 「あなたが『信仰の弱い者』」と一段下に見ていた人々、あなたが心にかけようとしなかった人々のためにも、イエス・キリストは十字架で死んでくださったのではなかったのですか。」この言葉から、いかにパウロが弱者のことを悲しみ、強者の行動を激しく怒っていたかが、伝わってきます。

 そして、弱者の心を踏みにじる者の行動を、弱者に対する罪であるとともに、彼らのために十字架で死に給う程、彼らを愛したもうイエス・キリストに対する罪でもあると指摘。罪の悔い改めを迫りました。こうして、最後は、パウロによる念押しのことばとなります。


8:13「ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。」


未熟な者には、たとえその心を踏みにじることになっても正論を通すべきとか、自分がお手本を示すべきとか。そんな風に自らを高くして隣人の上に立つ者とは、全く正反対のパウロの姿がここにあります。むしろ、弱い兄弟を躓かせないためなら、進んで自分の権利を放棄する。兄弟を養い、徳を高めるために最善のことをする。隣人に仕える人、神のしもべパウロの姿を、私たちはここに見て、コリント第一8章を読み終えることにします。

最後に、ふたつのことを確認しておきたいと思います。

一つは、私たちの中にも、コリント教会の進歩派のように、知識の面か、信仰の面か、あるいは道徳的な面でか、相手よりも自分の方が正しいと感じる時、自分を相手の上に置く高慢な性質が、あるのではないかと言うことです。高慢さは、余りにも自然に私たちの中に生まれてくるので、気がつきにくいものではないかと思います。

高慢さは、たとえ自分のことばが、相手に対する配慮に欠けていても、「言っていることは正しいのだから仕方がない」と、私たちに思わせます。たとえ自分の行動が、愛に欠けていたとしても、自分はすべきことをしただけだと、私たちに思い込ませるのです。高慢の罪によくよく注意し、自戒したいと思います。

二つ目は、高慢に陥らないために私たちにもできることがあると言うことです。自分の良心だけでなく、隣人の良心に配慮すること、隣人の徳を高めるためなら、自分が当然と思う権利であっても進んでこれを捨て、何ができるかを考えること。これをパウロの姿から、学びたいと思うのです。

パウロが、キリストの恵みによって、時間をかけ、困難な経験を通して身に着けたこの生き方を、私たちも、キリストの恵みと日々の実践によって身に着けること、目指したいと思うのです。


コリント第一 81b「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」

レント「三者三様~ピラト、シモン、都の女たち~」ルカ23:13~31

 先週の礼拝から、私たちは主イエスが受けられた苦しみ、受難について学んでいます。ところで、現代ではキリスト教会と言えば、誰もが十字架を思い浮かべます。聖書を読んだことのない日本人も、十字架のある建物を見つけると、「あれが教会だ」と分かるほどです。十字架のネックレスやペンダント...