今年最後の聖日礼拝となりました。ここまで礼拝の歩みが守られた恵みを心から感謝いたします。
この一年、皆さまの歩みはどのようなものだったでしょうか。「神様がどのようなお方で、神様の前で私はどのように生きると良いのか。神様は私にどのような恵みを与えて下さり、私はその恵みにどのように応じているのか。」これらのことは日々意識し確認すべきことですが、一年の終わり、この聖日には特に考えたいと思います。この一年はどのような歩みだったのか。次の一年、私はどのように歩みたいのか。
とはいえ、どのような思いで一年を振り返り、どのような思いで新たな一年を迎えたら良いのか。私の視点、私の受け止め方は誤ったもの、偏ったものになっていないか。自分の考え方、自分の姿勢を判断するのは意外と難しいもの。自分の為してきたこと、頂いた恵みに、どのように向き合えば良いか、主イエスの言葉を聞きたいと思います。
開きます聖書はルカの福音書17章の中盤の記事。17章は、1節から10節まで、イエス様が弟子たちに語られた言葉が収録されています。弟子に向けてのメッセージ。今日はその後半部分と、その後に起こった出来事を確認していきます。まずは弟子に語られた教え、自分の為したことをどのように振り返れば良いか語られるところ。
ルカ17章7節「あなたがたのだれかのところに、畑を耕すか羊を飼うしもべがいて」
イエス様は様々なたとえを語られましたが、「主人としもべ」はよく用いられるモチーフ。その多くは、「主人」が神様、「しもべ」が人間として、神様と人間、神様と私たちの関係が語られます。しかし、今日の箇所は珍しいことに弟子たちが主人の場合。一般的に、主人はしもべにどのように振る舞いますか。いや、あなたがしもべの主人だったとしたら、そのしもべにどのように振る舞いますか、という投げかけなのです。
ルカ17章7節~9節「あなたがたのだれかのところに、畑を耕すか羊を飼うしもべがいて、そのしもべが野から帰って来たら、『さあ、こちらに来て、食事をしなさい』と言うでしょうか。むしろ、『私の夕食の用意をし、私が食べたり飲んだりする間、帯を締めて給仕しなさい。おまえはその後で食べたり飲んだりしなさい』と言うのではないでしょうか。しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。」
自分が主人で、しもべがいるとして、食事の場面でどうするのか。現代の日本に住む私たちが想像するのは難しいですが、当時の社会ではよくある状況の一つ。
畑仕事を終えたしもべが帰ってきた。これから、しもべが食事を準備する。その時に、「さあ、一緒に食事をしよう。」と言う主人がいるだろうか。(これはつまり、しもべのために食事を用意して待っていたる主人ということでしょう。)いや、いない。しもべには食事の用意をさせ、まず自分が食べる。その後で、しもべは食べる。ここに出てくる主人の食べる「夕食」という言葉と、その後でしもべが「食べたり飲んだり」という言葉も区別されていまして、食事の内容も異なるのです。また主人はしもべに感謝するのか、この感謝するという言葉は、「恩を感じる」とも訳せる言葉です。しもべがその働きをした時に、主人は恩を感じるか。
畑仕事から帰って来て、食事の準備もさせるのは酷い。食べる順番も、その中身も異なるというのは冷酷なのかと言えば、そうではない。当時の一般的な感覚からすれば、主人としもべの立場には決定的な違いがあり、これは当然のこと。あなたにしもべがいる場合、しもべに対して、このように振る舞うでしょう。しもべがすべきことをしたからと言って、あなたはしもべに感謝しますか、恩を感じますか、と聞かれれば、感謝することはない、恩を感じることはないと答えることになる。
この話を枕にして、イエス様は次のように言われます。
ルカ17章10節「同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」
この結論部分、「あれ?」と思います。先ほどまでは、私が主人の場合の話でした。ところが、ここで私はしもべの場合の話となっている。「同じように」と言われますが、少なくとも視点は逆転している、正反対になっているのです。
自分が主人の場合、しもべが命じられたことをすべて行っても、それは当然のこと、感謝するとか、恩を感じることではないでしょう。そうだとすれば、自分がしもべの場合も同じように考えるべきしょう。すべきことを行うのは当然のこと。すべきことを果たしたとして、誇ることが出来るのか、特別な報酬を求めることになるか、主人は感謝すべきだと言えるのかと言えば、そうではない。「なすべきことをしただけ」と言うべきでしょう。それも、自分のことを、取るに足りないしもべと受け止めるようにと、まとめられます。謙遜、慎み深さの勧め。
キリストの弟子は、神様のしもべ。私たちキリストを信じる者は、神のしもべでもある。私たちは、神様の前で自分を何者とするのか。自分の為したことをどのように受け止めるのか。皆さまは、この謙遜、慎み深さの勧めをどのように受け止めるでしょうか。
私は、これだけの人に聖書の話をした。これだけの人を教会に連れてきた。毎週の礼拝を守り、様々な奉仕をした。あれやこれやの役職を果たした。祈ること、聖書を読むことに取り組んだ。多くをささげた。何も教会のことだけではないでしょう。よく働き、よく学び、家族に仕え、地域に貢献した。神の民として、十分に使命を果たした。私は立派な神のしもべである。このような私は、多くの恵みを受けるべきではないか。そこまで露骨に自分を誇る思いはないにしても、このような思いが自分の中にないか、心探られます。
ところで、謙遜、慎み深さの勧めをするために、イエス様が枕としたのは、一般的な主人としもべを考えた場合、私たちが主人の場合でした。その場合、命じられたことを果たしたとして、しもべに感謝することはない、恩を感じることはない。
しかし、私たちは誰のしもべなのかと言えば、神様のしもべでした。そして、神様が主人の場合はどうなのかと言えば、これはまた別の話。私たちが主人の場合とは、全くことなるのです。イエス様が語られたたとえには、次のようなものがあります。
ルカ12章37節「帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。」
これが、私たちの主の姿。人の常識では考えられない姿。しもべが命じられたことを果たした時に、それだけで大喜びをし、大きな報いを用意するというお方。神様がこのようなお方であると分かると、自分を誇る必要がないことが分かります。何しろ、私たちのなすことを良く知り、喜ぶお方。この主人を前に、そのしもべは、「なすべきことをしただけです。」と言うので十分なのです。
このようにイエス様の言葉を通して、自分の為したことにどのように向き合うべきか記したルカは、続けて、神様の恵みにどのように向き合うべきか、出来事を通して記していきます。
ルカ17章11節~13節「さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、声を張り上げて、『イエス様、先生、私たちをあわれんでください』と言った。」
ツァラアトに冒された十人が、イエス様に癒しを求める場面。ツァラアトという病気については、旧約聖書にある程度、詳しく記されていますが、それでも、どのような病気だったのか、正確には分かりません。人間にだけ感染するのではなく、聖書には衣服のツァラアト、家のツァラアトと出てきますので、病原菌ではなくかびのようなものと考える人もいます。人間に感染しますと、皮膚に症状が表れ、患部を見ることでツァラアトかどうか判断することが出来ました。
旧約聖書の規定では、ツァラアトの症状が出た場合も、治った場合も、その人は祭司の所に行き患部を祭司に見せます。もし祭司がツァラアトだと判断した場合、その人はどうなるのか。
レビ記13章45節~46節「患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。」
ある人がツァラアトだと分かったら、その人はその場で、自分の衣を引き裂き、髪の毛を乱さなければならない。患部を剥き出しにし、髪の毛を乱すという異常な状態。周りの人に、自分がツァラアトであると示すためでしょうか。唾が飛ばないように、口ひげを手でおおいながら、「汚れている、汚れている」と言わなければならない。そしてそのまま、宿営の外、町の外に行く。悲惨です。この病気はただの病気ではなかった。その人の人生に絶望的なダメージを与える病気。
ここに十人のツァラアトに冒された者たちが登場します。本来、村の外にいるべき者たちが、村の中でイエス様を迎えます。患部が見えるようにボロをまとい、髪を乱し、口を覆い、汚れていると言いながら、待っていたでしょうか。ツァラアトの人が、十人揃って町の中に入るというのは、相当の覚悟が必要だったでしょう。しかし、何としても救い主に会いたいと願ったのです。
「私たちをあわれんで下さい」との願いに、イエス様はどのように応えられたのか。
ルカ17章14節「イエスはこれを見て彼らに言われた。『行って、自分のからだを祭司に見せなさい。』すると彼らは行く途中できよめられた。」
ツァラアトの人が、自分のからだを祭司に見せるというのは、病が治った時にすること。十人はツァラアトが治っていない状況で、それでもイエス様に言われた通り、祭司のもとに向かいます。これは凄い信仰。その行く途中で皆がきよめられた、癒されたのです。
十人が同じように願い、十人が同じように信じ、十人が同じように癒された。自分ではどうしようもない、しかしどうしても解決したい問題を救い主によって解決された。ここまで十人、全て同じ。
しかし、この後で違いがありました。
ルカ17章15節~16節「そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。」
皆が癒される中、一人がそれに気がつくと、大声で神をほめたたえました。自分が癒されたと分かると、神様を賛美せずにはいられなかった。嬉しくてしょうがない。飛んで引き返して、イエス様の足もとにひれ伏して、感謝を示す。印象的な姿です。
ところでルカは、この一人がサマリア人であったと記しています。ユダヤ人からすれば、サマリア人とは異端者、非常に関係の悪い者たち。しかし、イエス様のもとに戻ってきたのは、サマリア人一人であった。
この状況に驚いたような、落胆したようなイエス様の言葉が響きます。
ルカ17章17節~19節「すると、イエスは言われた。『十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。』それからイエスはその人に言われた。『立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』」
戻ってきて感謝を述べたのは、サマリア人一人だけ。重大な問題に解決が与えられたにもかかわらず、戻って来て感謝を述べたのは、十人中たったの一人。この状況にイエス様は、あとの九人はどこに行ったのか、との細い声です。
ところで、ここでイエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。このように言うことで、ツァラアトが治ったのは、この時偶然に治ったとか、今までしてきた何らかの処置がこの時になって効いたというのではない。救い主に対する信仰によって、ツァラアトが直ったことを明らかにされたわけです。また、ここでイエス様は魂の救いも宣言されたと考える人もいます。
それはそれとしまして、この記事で印象に残るのは、戻って来たのが一人であったということです。十人同じ問題を抱え、同じ様にイエス様を信じ、同じ様にイエス様に願い、同じ様にイエス様に従い、同じ様に癒された。しかしイエス様のもとに戻ってきたのは十人中、一人だけだった。
感謝するために戻ってきた人がいないわけではなかった。一人いて良かったと思うことも出来ます。しかし、イエス様が言われた「九人はどこにいるのか」という言葉からすれば、やはり感謝を示す者が少ない、残念な記録と言えるでしょう。大きな恵みが与えられながら、その恵みに感謝を表す者が少ない。これが人間の姿でした。
果たして自分がこの十人のうちの一人だったら、どうしていたか。ツァラアトの癒しどころではない。キリストによって罪から救い出された私たち。与えられた恵みに、どれだけ感謝をあらわしてきたか。よくよく考える必要があります。
十人中、感謝を示したのは一人であった。残念な記録。しかし、覚えておきたいのは、それでも十人全員癒されていたということです。感謝を表す者にだけ恵みが注がれるのではない。感謝を表さないと恵みが取り上げられるのでもない。私たちの神様は、私たちが与えられる恵みにどのように応じるかは関係なく恵みを注いで下さる方。私たちの神様は、どこまでも憐れみ深い方だと覚えておきたいと思います。
以上、ルカの記した二つの段落を確認しました。一つはイエス様の説教。一つはイエス様の癒しの記録。どちらも、ルカの福音書にだけ記されたものです。そして、この二つの記録を並べて記したところにルカの意図を感じます。
私たちは、自分の為したことを、過剰に重要視し、自分を誇る傾向がある。それにもかかわらず、神様のして下さったこと、神様が下さる恵みは覚えない、感謝しない傾向がある。自分の為したことと、神様がして下さったことに対して、正反対の向き合い方をしてしまうのです。そのようになっていないか、問いかけるルカの筆です。今日、私たちはこのルカの問いかけに心探られたいと思います。
キリスト教は恵みの宗教。私が何をするかではなく、神様が何をされているのかを大事とする。一年の終わりの時。一年を振り返り、次の一年に備える時。神様のなされたことに目を向け、感謝すること。自分の為したと思うことがあれば、神様が導いて下さったことを覚え、なすべきことをしましたと首を垂れる。私たちの主である神様が、どのようなお方なのか、再確認して新たな年を迎えたいと思います。
今年最後の聖日礼拝となりました。一年の終わり、どのような思いで一年を振り返り、どのような思いで新たな一年を迎えたら良いのか、今日のイエス様の言葉から考えたいと思います。
1.
主人としもべ:主人の場合
(1) イエス様は様々なたとえを語られましたが、「主人としもべ」はよく用いられるモチーフ。
(2) この箇所は珍しく、弟子たちが主人の場合として語られます。
(3) 当時の一般的な感覚からすれば、主人としもべの立場には決定的な違いがある。
(4) 自分が主人の場合、しもべに感謝することは考えられない。
2.
主人としもべ:しもべの場合
(1) 「自分が主人の場合」を枕にして、結論部分で視点が反転します。
(2) 自分がしもべであれば、なすべきことをしただけ、取るに足りないしもべと言うべきでしょう。
(3) 謙遜、慎み深さの勧めとなります。
(4) しかし、私たちの主人が神様だと考えると、このたとえで語られた主人とは全く異なります。
3. 十人のツァラアトの者たち
(1)
ツァラアトとは、その人の人生に絶望的なダメージを与える病気。
(2)
何としてでも救い主に会いたいと願い、イエス様を待っていた者たち。
(3) 治っていない状況で、言われた通り祭司のもとに向う。凄い信仰。
(4) 癒されたことを知り、イエス様の元に戻ってきたのは、十人中一人でした。
(5) しかし、感謝を表す者にだけ恵みが注がれるのではない。感謝を表さないと恵みが取り上げられるのでもないのです。
4. まとめ
(1)
二つの記録を並べて記したところにルカの意図を感じます。
(2)
私たちは、自分の為したことを、過剰に重要視し、自分を誇る傾向がある。それにもかかわらず、神様のして下さったこと、神様が下さる恵みは覚えない、感謝しない傾向がある。
(3) キリスト教は恵みの宗教。私が何をするかではなく、神様が何をされているのかを大事とする。
一年の終わりの時。一年を振り返り、次の一年に備える時。神様のなされたことに目を向け、感謝すること。自分の為したと思うことがあれば、神様が導いて下さったことを覚え、なすべきことをしましたと首を垂れる。私たちの主である神様が、どのようなお方なのか、再確認して新たな年を迎えたいと思います。